フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

「Narration in the Video Game」メモ

 問題意識がだいぶ共通するし、読んでいて共感できる内容だった。ただ、ビデオゲームの物語を取り巻く問題はそんなに簡単じゃないと思う(ここからの話(1-5)はここで紹介する論文に対してというよりは、2000年代の物語に関する論文全体に対する愚痴)。

  1. ゲームは物語か否かという問いはあまり意味がない。
     その答えは物語の定義や作品に依存するし、何よりビデオゲームの何が、どのような点で物語なのかor物語でないか見えてこない。
  2. ビデオゲームで何らかのストーリーが語られることと、②ビデオゲームの出来事や経験が物語として理解されることは、分けて論じられるべきである。
     特に②を論じようとすると、さまざまなレベルの話がごっちゃになる危険性がある(そうなっている)。ビデオゲームインタラクティブな物語、あるいは創発的な物語として考える論者は、①の意味でのゲームの物語を②の視点から擁護しようとするが、結果として①と②を混同した状態で議論が展開されている*1
  3. 物語性があることはそれが(①の意味での)物語であることを意味しない。
     2. と同じ。
  4. 物語論の枠組み適用できることはその対象が物語であることを意味しない。
     これはものによるとは思うが、物語論が適用できるからといって直ちにそれが物語であると考えるべきではない。特に物語の叙述に関わる理論は、(物語でない)出来事の表象に対しても適用可能である。例えば焦点化の議論はスポーツの中継にも適用できるが、だからといってスポーツが物語になるわけではない*2
  5. 物語の概念を適用する前に、それをするメリットについて考えるべき。
     これは物語の定義にも関わる話でもある。つまり、どのように物語を定義するかによって、その概念の有用性も変化する。実は、いくつかの議論は、物語の概念を適用する必要がないのではないかと思う。例えば、「物語の世界」について話したいのならフィクション論で十分カバーできるし、「プレイヤーが物語の世界とインタラクションできる」的な話をしたいなら、インタラクティブなフィクションやシミュレーションなどの議論を参考にした方がいい。要はそれを物語としてとらえることにどんな意味があるのかを考えるべきということ。

 まだ、最近の論文を追えているわけではないけど、はたして物語の概念についての整理がどれくらい進んでいるのか(それとも整理されていない?)気になるところ。

(結構長いので個人的に重要だと思った箇所だけ。)

イントロダクション「ゲームを始める」

1. 表紙:序文*3

 ゲームと物語は相容れないものなのか、ゲームに物語性があるのか、といったお馴染みの問いと先行研究が紹介されている。

 ルドロジストの主張まとめ:

  1. ビデオゲームは本質的にインタラクティブであるため、基本的に物語ではない。全てのゲームはインタラクティブであるが、ゲームの多くはストーリーを伝えようとしない。
  2. ビデオゲームがストーリーを語ろうとするとき、それは映画的あるいは文学的な技法を用いて行われる。つまり、ビデオゲームは自力で語りを提示するのに必要な道具を持っていない。

 筆者の目的は既存の物語論や映画研究を検討し、ビデオゲームに適用できる形にすること*4

第1章「パワーアップ:インタラクティブ性、ゲーム、ビデオゲーム

2. 取り扱い説明書:概念を定義する

 ここでは「インタラクティブ性」「ゲーム」「ビデオゲーム」の定義が行われている(省略)。

3. オープニングカットシーン:物語論ビデオゲーム

物語の3要素*5

  • 物語内容:story(仏:histoire)
    与えられた世界で1人以上の登場人物に起きる一連の出来事。
  • 物語言説:narrative(仏:récit)
    物語内容をテキストに編成すること、及びそれを生成する形式。
  • 語り:narration(仏:narration)
    物語言説の伝達様式。

 ビデオゲームが物語かどうかは(どの論者の)定義を採用するかによる。ルドロジストは古典的な物語論を援用しがち。

ルドロジストの物語論に関する議論まとめ:

  1. 時制の隔たりの問題
    物語は語り手の時間と語られる時間の二重性により定義づけられ、この隔たりなしに「語る」ことはできない。ゲームにおいてプレイヤーの行動は今起きているため、出来事の伝達方法は物語のそれとは異なる。
  2. 語り手の問題
    物語にはそれを語る権威が必要である。語る者がいなければ、出来事は語られるのではなく、示されることになる。
  3. 相互浸透(interpenetration)の問題*6
    現代のビデオゲームインタラクティブなセグメントと物語のセグメントを交互に提示するが、実際に両者は相互浸透していない。そのため「インタラクティブな物語」なんてものはない。
  4. 線形性の問題
    ビデオゲームインタラクティブなため、出来事は事前に決定されていない。それに対し、物語は出来事は固定されている。

 ルドロジストの議論は二つの軸で二極化している。ひとつは内容「what」に関わり(「何が物語内容なのか」)、もう一つは形式「how」に関わる(「物語とみなされるためには、どのように物語内容は提示されなければならないのか」)。物語の研究も2つに分けることができる(what->物語記号論、how->物語論)。

 ゴードゥローは外在的な物語性(内容)と内在的に物語性(形式)を区別していて、彼によると内在的な物語性は本質的に物語と認めることができるという*7。であるならば、ビデオゲームに内在するメカニズムに語りの機能が刻まれていることが証明されれば、ビデオゲームは物語ということになる*8

第2章「物語性の探究」

4. 第1面:物語内容

 (物語内容的に)どのような条件を満たすものを「物語」とするべきか。アンドレ・ゴードゥローの定義「演者(actor)が引き受ける一連の行動(action)」をベースに考えていく*9(((André Gaudreault, “Problèmes du récit” in Du littéraire au filmique: système du récit (Paris: Méridiens Klincksieck, 1988)))。

4. a) 行動

 一連の行動が物語内容として認識されるためには、出来事が時間的・因果的に結びついていないといけない。ただ、これは広い意味での物語内容の定義で、映画や小説などで語られている物語内容はもっと狭い意味のはず。ここでは、物語論で対象となるような、高次に構造化された物語内容を「劇的なストーリー(dramatic stories)」と呼ぶことにする*10。「劇的なストーリー」では、少なくとも一つ以上の対立がベースになっている*11

 全てのゲームは対立に基づいているので、内容が時間的・因果的に整列できるゲームならば、物語論を適用できるはず。

4. b) 演者

 演者(actor)は行為者(performer)として定義され、物語を前に進めるのに必要な役割を擬人化したものである。問題はビデオゲームにおいて誰を(何を)演者と考えるべきか。

 ①ゲームにアバターが介在するケース(『スーパーマリオブラザーズ』)は、そのアバターが演者となるだろう。②ゲームにアバターが介在しないケース(モノポリー、チェス、『テトリス』)は、演者と呼べる主体が存在しない(プレイヤーは現実のレベルにいるので違う)。

 物質のレベルと内容のレベルは区別しないといけない(この点は『Half-Real』と一緒。*12*13

5. ボーナスステージ:『テトリス』を追い出せ*14

 『テトリス』はキャラクターのいない抽象的なゲームの事例(そしてゲームが本質的に物語ではない証拠)として、ルドロジストによく取り上げられる。ただ、今日ストーリーが存在するゲームの方が主流である。

 映画は当初物語を伝えることができるとは考えられていなかった。ビデオゲーム史初期の作品を挙げて、ゲームにとって物語は考察に値しないと否定するのは、不適当な主張である。

6. 第2面:物語表現

 ジェラール・ジュネットは、語り(diegesis)と再現(mimesis)を区別し、語りによる伝達しか「物語」と認めていない。

  • ストーリーを物語に構成するのに必要な操作(錯時法など)は言葉によってのみ可能である。
  • 言葉による語りには必ず語り手の存在が保証される。しかし、映画や演劇には語り手はいない。したがって、これらは語りがないので、物語ではない。

 同様の理屈でビデオゲームも物語ではないということになってしまう。インタラクティブ性により、出来事が現在進行形で展開し何が起こるか未定のゲームは、固定した内容を語る物語とは言えない。詰んだ?*15

第3章「物語論デバッグする」

7. 第2面の再挑戦:時制

 物語の本質についての仮説の一つは、どんな物語にも語る時間(シニフィアン)と語られる時間(シニフィエ)の2つの時間の枠組みが存在することである。

 当初、映画にはこの時間の二重性はないものと考えられていた。しかし、メッツは映画の単位(ショット、シークエンス)をそれ単体ではなく、包括的な文脈の中で検討することで、映画も時間の操作が可能であることを指摘した*16

 ビデオゲームの場合も同様の指摘ができる。例えば『ファイナルファンタジー』で宿屋に泊まると、宿屋に泊まった時間が要約され、金銭のやり取りの時間が省略される。『プリンス・オブ・ペルシャ 時間の砂』では、砂の泉に触れるとお手本として未来の光景を見ることができる(これはフラッシュフォワードだ) *17ビデオゲームにも時間の操作が可能であり、時間の二重性を備えているといえる。

 もちろん、多くのビデオゲームは『プリンス・オブ・ペルシャ』のような時間の操作を伴わないが、そもそも時間の操作は物語の必要条件ではない。そうであるならば、出来事がリアルタイムで展開するテレビシリーズ『24』は、物語でないことになる。時間の操作は物語を伝える手段に過ぎない。

8. 第2面の再挑戦:語りと語り手

 物語の定義が困難である場合、「語りnarration」にその定義を求めることができる。「語り」とは、ある存在(語り手narrator)が他の存在(聴き手narratee)に特定の内容(「劇的な」ストーリー)を特定の方法で伝達する過程を指している。そして、「語ることtelling」は「示すことshowing」と区別され、再現は語りと区別されてきた*18

8. a) 映画と文学の中で

 ゴードゥローは、プラトンアリストテレスのdiegesis/mimesisの概念が誤解されていると主張した*19

 原典では、言葉のみの「単純な語り(simple narrative)」と「演劇的な再現(dramatic reenactment)」あるいは「模倣による語り(narrative with imitation)」は、どれも語り(narrative)という大きな領域の下位区分に位置付けれていたようである*20*21

 結局のところ再現も語りの領域からは逃れられない。ゴードゥローは、語り手はストーリー全体の出来事が通過するフィルターであると論じている*22

 映画は「ボイスオーバー」で語る語り手の介入がなかったとしても*23、ショットの角度・持続・順序や見せるに値する出来事を決定し、その内容を秩序立てる、権威の産物である。

 アンドレ・ゴードゥローは、複数の表現手段を使える「基本的な語り手」が存在し、この語り手は語り手と示し手(monstrator)の二つの身分を取ることができると主張した*24

 語り手は何か(出来事、キャラクターなど)を別の記号(言語、映像)の体系に翻訳することによって、出来事を語る。示し手は別の記号体系に置き換えることなく、直接出来事を見せる。映画なら、各ショットを作り出す(撮影する)のが示し手の働き、そのショットを組み合わせて物語言説を生み出すのが語り手の働きとなる*25

8. b) ロールプレイとビデオゲームの中で

 レフ・マノヴィッチは『ニューメディアの言語』で新しいメディアのための構造を提案している*26

  • データベース:コンテンツ(画像、テキストなど)それ自体
  • アルゴリズム:データベースのコンテンツを結びつける一連の命令や手続き

 上記の示し手/語り手をこの構造に適用すると次のようになる*27

  • 示し手(monstrator):データーベース(ゲームのステージを構成する)
  • 語り手(narrator):アルゴリズム(ステージを実際に動かし、ゲームプレイを実現する)

 なぜ私たちはこの「語り手」の働きの結果を物語として認識するのか。それはTRPGについて考察することで見えてくる*28GMゲームマスター)には二つの役割(審判、語り手)がある。GMはこの二つの役割を行き来する中で、ルールの記号体系をフィクションの記号体系に変換している。そして、この二つの役割の「声」はTRPGにおいて区別されている。ビデオゲームではこの語り手の声がグラフィックなどの別の表現に置き換わっている*29

第4章「ビデオゲームの物語」

9. 第3面:インタラクティブな物語の解剖

 従来、物語は固定された出来事を語るものとみなされてきた。しかし、ビデオゲームは可変性を特徴とする。もし、物語とゲームが互いに影響を与えることがないのであれば、それを「インタラクティブな物語」ということはできないだろう。

9. a) 物語の二重構造

 ビデオゲームでは<非物語かつインタラクティブな要素>と<物語かつ非インタラクティブな要素>が交互に繰り返されているという見方がある*30。これはカットシーンのモデルと一致している。

 イェスパー・ユールはビデオゲームを進行型ゲームと創発型ゲームに分けている。ただ、進行型ゲームであってもプレイヤーの行動で物語によって決定される作品もあり、このことは、ゲームシーンとカットシーンは独立しているのではなく、相互浸透していることを示している。

 ビデオゲームの物語研究には2つの言葉のハードルがある。一つは、「物語」の多義性に起因する。ヘンリー・ジェンキンスが提案した4つのタイプの物語*31は、①既に書かれているものと②プレイヤーの行動に直接依存するものの2つに分けることができる*32ビデオゲームにおいてこの②のレベルの物語をどう説明すればいいのか。

 これは二つ目のハードルと関係がある。マリー=ロール・ライアンが指摘するように、英語のgameにはフランス語のjeupartieのような区別がない*33。そこで、ルールの体系としてのゲームをgame-object(GO)、 GOが生み出す活動としてのゲームをgame-process(GP)と呼ぶことにする*34。そして、GP中に生じる物語をvideogame narrative(VN)と呼び、設計者によってあらかじめ定義された物語を(ジェンキンスの言葉を借りて)embedded narrative (EN)と呼ぶ。ENは既に定められたものをプレイヤーが発見するだけなので、その内容は不変である。

9. b) 物語、そして可変性の原則

 VNはGPの中で生じるため、GOを分析するだけではこの物語を説明できない(物語の構造分析も同様)。これは進行型ゲームでも創発ゲームでも変わらない。進行型ゲーム(EN>VN)も創発型ゲーム(EN<VN)も、ENとVNの重要度が違うだけで、根本的に違うわけではない。

10. 第4面:記号語用論の観点

 ビデオゲームで「物語」が存在するには、まずプレイヤーがフィクションのモードでゲームに取り組む必要がある。プレイヤーが物語を生み出すことに興味を持たない限り、物語は存在しない。

10. a) 物語世界化(Diegetization)

ビデオゲームのプレイングをフィクションとしてみるには、虚構世界(diegesis)を構築する必要がある*35。詳細は省略。

 筆者は物語世界化にはプレイヤーにアバターの体が与えられる必要があると考えている*36

10. b) 物語化(Narrativization) 

 物語世界化が進行すると、出来事を物語化することができる。物語化は個々の出来事が物語的に結びつく一つ前の段階である*37ビデオゲームで展開する出来事は、ある種の物語の一部分として秩序づけられるように思えるが、プレイの最中ではその結果を全て把握することはできない。

 私たちは小説や映画を見るときと同じように、すべて出来事は物語において何らかの意味をなす(あるいは意味をなすだろう)と考えてビデオゲームを見る*38。この見方では、出来事は後に物語上の意味が発見され、組み込まれることが期待される。

10. c) 語り(Narration)

 物語化されたミクロの物語は、語りのレベルで物語に構造化される。構造化の操作については省略。物語の出来事は結末によって構造化され、その意味を理解することができるようになる*39*40

11. ボス戦:物語の相乗効果

 VNとENの関係について、オーディンの「物語調律(narrative attunement)」という概念を用いて説明する*41

 物語調律の概念は映画研究の概念で、映画作品を構成する諸要素(音楽、リズム、モンタージュ、演技など)を総動員して物語を構成すること(あるいはそのようにして物語を受容するモード)を指している*42。重要なのは、観客-映画(の記号)の関係を観客-物語世界の関係と相同するように構築すること。

 これはビデオゲームでもやっている(『SimCity』など)。この時、ENは物語世界との関係を提示し、インタラクティブなシークエンスの出来事に物語性を付与する。プレイヤーは、プレイヤー-ゲームの関係とプレイヤー-物語世界の関係の間に相同性を見出すことができる。

 ENとVNの間には相互浸透があり、ENはVNを構成する一部となる。そして、両者の相乗効果により、明確で首尾一貫した体験が実現する*43

第5章「結論:サイバー吟遊詩人を待つ間に」

12. エンディングのカットシーン:聖別された禁忌の繋がり*44

省略。

 

論文情報

Arsenault, Dominic. 2007. “Narration in the Video Game. An Apologia of Interactive Storytelling, and an Apology to Cut-Scene Lovers.” English translation of master's thesis (Jeux e t enjeux du récit vidéoludique: la narration dans le jeu video, 2006/8, Université de M ontréal). available at https://www.academia.edu/224771/Narration_in_the_Video_Game_An_Apologia_of_Interactive_Storytelling_and_an_Apology_to_Cu t_Scene_Lovers

*1:このような議論には、小説以外の物語、例えば映画などの物語性を擁護する議論が援用されているように思えるが、全然サーベイが進んでいないので確かなことは言えない。

*2:スポーツを物語として分析することはできるかもしれないが、それとこれは別の話。

*3:この論文の各章・各節のタイトルは、議論の進行をゲームの進行になぞらえてつけられている。僕はこういうの結構好き。

*4:モチベは僕と一緒だと思う。

*5:原文をそのまま翻訳すると「ストーリー」「物語」「語り」になるが、ややこしいので日本で一般的な呼び方に直す。

*6:この話は知らなかった。

*7:André Gaudreault, Du littéraire au filmique: système du récit (Paris: Méridiens Klincksieck, 1988), 43

*8:刻む(inscribe)には、「永続する(lasting)記録として」というニュアンスがあるらしいので、この場合、語りはビデオゲームのメカニズムにとって本質的、あるいは不可分であると言いたいのだと思われる。参考

*9:take in chargeの訳が微妙...。要は主題となる登場人物と出来事があれば物語になるという話だけど。

*10:ストーリーも物語内容も基本的には同じ意味。自然な方を訳語として採用しているだけ。

*11:劇的なストーリーの特徴づけがこれでいいのかは疑問。映画や小説の中には、対立がない(もしくは重要でない)作品もありそうなものだが。

*12:Jesper Juul, Half-Real: Video Games between Real Rules and Fictional
Worlds (Cambridge: MIT Press, 2005), 1

*13:この点については自分も同意するが、実際のゲームプレイで両者がどのように区別できるのかについては考え中。果たしてマリオの行動の全てを、マリオの意思によるものであると、プレイヤーは考えているのだろうか(たぶん違うと思う)。

*14:単に『テトリス』が対象外であることを指摘すれば十分だと思うのだが、ルドナラ論争が足を引っ張っている...。

*15:実際に本文で「Checkmate?」と書かれている。

*16:Christian Metz,  Essais sur la signification au cinéma (Paris: Méridiens Klincksieck, 1968), 111-137

*17:その理屈で言うと、『ゼノブレイド』のビジョンも物語論的にはフラッシュフォワードということになる。

*18:要はdiegesisとmimesisのうち、diegesisしか語りとして認められていなかったと言う話。

*19:André Gaudreault, Du littéraire au filmique: système du récit (Paris: Méridiens Klincksieck, 1988), 51

*20:diegesisとmimesisの区別には、少なくとも二つの用法がある。一つは言語による語りの様式の区別。もう一つは、語りの様式そのものの区別(この注では「語り」を「物語内容を伝達する行為」という意味で用いる。)。前者は間接話法と直接話法の区別が対応し、後者は小説と演劇、あるいは小説と映画など区別がメディアレベルに及ぶ。ビデオゲームで問題になっているのは後者の方である。二つのレベルは区別して用いられる必要があると思うが、あんまり区別されている気がしない...。

*21:「seem to」でいいのか...?

*22:André Gaudreault, Du littéraire au filmique: système du récit (Paris: Méridiens Klincksieck, 1988), 75

*23:原文では「off-voice」となっているが、おそらく「voice off」あるいは「voice over」のことだと思われる。日本語のわかりやすさを優先して「ボイスオーバー」にした。要は画面に登場しない語り手(ナレーター)が語ることをここでは指している(たぶん)。

*24:「示し手」は脚注を参考に適当につけた。定訳があるのかは知らない。

*25:これは僕が無理やり要約したものであってないかも。

*26:Lev Manovich, The Language of New Media (Cambridge: MIT Press, 2001).

*27:どうやら筆者は①個々の記号(となるもの)それ自体を生み出すレベルと②それらをある記号体系に構成して何らかの物語をつたえるレベルをそれぞれ示し手/語り手と呼んでいるように思える(そのような区別があったとして)。

*28:TRPGがわからない人はググって。

*29:多分こんな感じ。ここもちゃんと読めているか自信ない...。

*30:Chris Crawford, “Interactive Storytelling,” in The Video Game Theory Reader, ed. Mark J. P. Wolf & Bernard Perron (New York: Routledge, 2003), 258-273.

*31:Henry Jenkins,  “Game Design as Narrative Architecture”, in First Person: New Media as Story, Performance, and Game, ed. Noah Wardrip-Fruin & Pat Harrigan (Cambridge: MIT Press, 2004).

*32:ヘンリー・ジェンキンスの論文はたぶん後日まとめるので省略。

*33:Marie-Laure Ryan “Computer Games as Narrative”, in Avatars of Story (Minneapolis: University of Minnesota Press, 2006), 181-203.

*34:ビデオゲームを静的なオブジェクトと動的な活動に分けるという考えには賛成。

*35:diegesisは物語世界と訳されることが多いが、原文の記述を優先。

*36:おそらくプレイヤーの操作を受ける物語世界上の主体が必要であるということだと思う。それは一人のキャラクターでもいいし、複数のキャラクターでも構わない(『ザ・シムズ』など)。

*37:物語的に結びつくとは、ここでは出来事同士が劇的なストーリーの条件(時間性、因果性、対立性)を満たすように結びつくこと。

*38:ビデオゲームの出来事の意味、中でもゲームプレイ中に起きる出来事が、物語における意味を必ずしも持つとは思っていない。ゲームのルール(あるいはゲーム状態)における意味は常に持っていると思うけど。

*39:これは小説や映画でも変わらない。というよりは、他の物語を理解する方法と同様の方法でビデオゲームの物語は理解されているということだろう。ただ、ビデオゲームで起きる出来事がすべて物語(内容?)として構造化され、物語上の位置付けが与えられるとはあまり思えない。例えば、『ドラクエ』などで勇者が世界の危機を前にカジノで遊ぶことは、『ドラクエ』の物語においてどのような意味を持つのか。カジノで遊ぶことによって、勇者は世界の危機を無視していることになるのか。おそらくふつうはそうは考えないだろう。むしろ、勇者がカジノをしているかどうかがストーリーに何か影響を与えるとは考えないのではないだろうか。そう考えるからこそ、プレイヤーはカジノを気軽にプレイできるのだろう。そうでなくても、プレイヤーが起こす雑多な行動(フィールドを歩き回る、レベリングするなど)が物語上の位置付けをもつとは思えない。こういった行動はそもそも物語内容になるとは考えられてないのではないだろうか(少なくとも僕はストーリーとは全く関係のない出来事だと考えている)。VNの話では全ての出来事が物語として理解されるように書かれているが、実際のところどうなのかははっきり示されていない。ただ、仮にそうだとしたら個人的には反対。

*40:あと、単純に語りの働きを受け手の解釈行為に求めているように思えるが、この場合、語り手(アルゴリズム)と語りはどのような関係にあるのか(あるいは別に関係ないのか)。

*41:Roger Odin, De la fiction (Bruxelles: De Boeck, 2000

*42:おそらくこういうことだと思う。正直「物語調律」で何をいっているのかはよくわからなかった。本来物語世界の出来事や事態を表していないものを、物語を表すものとして利用するから「調律」なのだろうか。

*43:僕はENとVNを合体させて首尾一貫した物語(体験)が実現するとは思っていない。おそらく、そこにはある種の忖度が多分に含まれているように思う。戦争シミュレーションゲームで、プレイヤーがそのゲームの物語で起きた戦争をゲームとしてプレイしたとする。プレイヤーがプレイした戦争は果たして物語上の戦争を忠実に再現しているのだろうか。僕はそうは思わない。そこで起きる戦争は、プレイヤーからすればルールの観点から理解可能なゲームプレイだが、虚構世界の住人からすれば、理解不能で支離滅裂な行動の連続になるだろう。例えば、『ファイアーエムブレム』シリーズでよく見られるボスチクは、その作品物語上ではどのような意味を持つのだろうか。おそらく何の意味も持たないし、そもそも物語上でボスチクがされているなんて普通考えないだろう。物語はゲームプレイを物語の文脈に位置付けるが、そのゲームプレイがそのまま物語内容になるわけではない。そこで起きているのは、「物語の出来事に似た出来事」、あるいは「物語をなぞっているような感覚」なのだろう。

*44:ここはどうやくしたらいいのかわからなかった。