(こっちはガチで自分用のメモとして使用するので、読んでも内容がわからない可能性があります。)
3.8 登場人物——特性の系列表(パラダイム)
- 登場人物の特性は系列表(パラダイム)として見るべき。
- 「特性」=「比較的安定し、また永続的な個人の特質」
- 特性は物語が進むつれ明らかになるor別の特性に取って代わる*1。
- 特性は束の間の心理的現象(感情、気分、考え、etc..)とは区別されるべき。
- 特性の系列表は言語分析の系列表とは異なる*2。
- 読者は登場人物の特性を推論するために、その時点までに確立された特性の系列表(行為×特性)を参照する。もし、該当する特性が見つからなかったら、他の特性をリストに加える*3。
- 出来事は時系列における位置が厳密に決まっていて、明確な始まりと終わりがある。それに対し、特性は作品を通して(あるいは作品を超えて)読者の記憶の中に存在し続ける(その意味で「永続的」であり、一時的な気分などとは区別される)。
- 登場人物の持つさまざまな特性(まだ名前のないものも含む)は固有名詞によって集約される。ただし、それが固有名詞である必要はなく、それを指示する符号があれば良い。
3.9 登場人物の種類
- 偏平(フラット)的人物
- 持っている特性が一つか、極めて少ない。
- 行動が予測可能。
- はっきりと記憶に残りやすい(覚えることが少ないから)。
- 円球(ラウンド)的人物
- さまざまな特性をもつ。相反するものを持つこともある。
- 行動が予測できない。
- 現実の人々のような親近感がある。
- 円球的人物は開かれた構造物である。つまり、彼らに関して新たな特性を発見する可能性があり、読者はそれを求めている。
- 円球的人物が語り尽くせぬ存在であるのは、特性の多さや矛盾だけでなく、ディスコースが(おそらく意図的にそうしているのだが)不明瞭であることにも起因する。
- 円球的人物の場合、特性だけでなく、未来の行為についてもオープンに考えることができる。
3.10 A・C・ブラッドリーと登場人物分析
- バルトは登場人物の特性を正確に記述しようとすると、それを示すための語彙が際限なく増大していくことを指摘している。
- A・C・ブラッドリーの分析はテキストを精読し、登場人物に内在する特性について一貫した見解を見出すというものである*4。
- ブラッドリーの分析は、作品のテクスチャーを軽視し、劇中人物をあたかも現実の人物のように捉え、彼らの人生が劇世界を超えて展開すると考えている、と批判した。
- ただ、これは論じる対象が異なるだけで、一方が他方を否定しているわけではない*5。
- そして芸術作品の個々の側面に価値の大小などない*6。
- 登場人物の分析に人格の[特性コード]が(というよりあたかも現実の人間について使われるような語彙)用いられるが、登場人物はあくまで構造物でしかなく、登場人物の人生は虚構物語の域をこえて展開しているわけではない*7。
3.11 背景
- 登場人物が存在する抽象的な物語空間には、明確に図と地が存在する。我々はそれを区別できる。
- とは言っても、重要な登場人物とそうでない背景の一要素でしかない人物の区別はきつそう。
- 実際のところ登場人物か否かははっきりとした基準があるわけではなく、程度問題。
- 背景の主な機能は、物語の雰囲気に貢献すること。
- 背景と登場人物の結びつきについてはいくつかの分類がなされている。
- バルトにとって背景の詳細な描写は装飾的なものに過ぎないが、背景の詳細な描写はたとえ物語野筋に無関係であっても、空想を抑制し、物語を制御する役割がある。
*1:登場人物の成長や性格の変化が念頭に置かれている。
*2:言語分析の系列表について知らないので、ここら辺よくわかんなかった...。
*3:これは自分なりに本書の内容を解釈したもの。こうして見るとデータベース消費とやっていることが近いかもしれない。
*4:やっていることはオタクの考察とまあ同じだと思う。
*5: これに関しては当たり前だよなぁ...。
*6:これも批評でやりがちな過ちである気がする。例えば「ゲームの本質は〇〇だ。だから、それがないこの作品はクソだ」系のやつ。それは単に〇〇以外の部分でプレイヤーが楽しんでいるだけなのかもしれないし、それを否定する正当な理由もないと思うのだが...。
*7:現代は逆にめちゃくちゃ物語世界から逸脱した仕方で登場人物の人生が拡散しているような...。それを説明したいが故のキャラ/キャラクター...。キャラクターレベルではあくまで物語から逸脱していないということなのか?