前回は、ゲームプレイごとに虚構世界が異なることは、作品世界とごっこ遊びの世界の関係ではなく、作品と事例がそれぞれ持つ作品世界の関係として説明できるという話をした。ここからは実際に作品と事例で虚構的真理を分ける研究を取り上げていく。
1. 「ビデオゲーム-真理」と「プレイスルー-真理」_ウィリス(2019)
ビデオゲームにおいて、虚構世界の事実のある部分はプレイヤー(あるいはゲームプレイ)によって決定されるが、一方でプレイヤーの決定に関わらず虚構世界の事実となる部分もある。例えば、『Mass Effect』の主人公シェパードの性別はプレイヤーによって決定されるが、『トゥームレイダー』のララ・クロフトがイギリス人であるのはビデオゲームそれ自体によって既に決定されている。
マリッサ・D・ウィリスはこのことを上演芸術(演劇)における作品と事例の関係をビデオゲームに類比的に適用することで説明している。
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- 演劇において、上演(事例)の内容は戯曲*1(作品)によってのみ決まるわけではない。例えば、俳優の身長や服装が戯曲に示されていない登場人物の外見を表すことがあるだろう。
- この時、上演には戯曲にはない虚構的真理が含まれている。演劇における虚構的真理はこの点で2種類(戯曲-真理、上演-真理)の2種類に分けることができる。
- 戯曲-真理:戯曲において真である虚構的真理。
- 上演-真理:上演において真であるが、戯曲において真でない虚構的真理*2。
- 戯曲は戯曲-真理しか含まないが、上演は戯曲-真理と上演-真理の両方を含む
- ビデオゲームにおいても同様の関係が成立する。つまり、ビデオゲーム(作品)とそのプレイスルー(事例)で虚構的真理を2つに分けることができる。
どのようにしてビデオゲーム-真理を特定するのか
ウィリスはこの後プレイスルーからビデオゲーム-真理をどのようにしたら特定できるのかについて論じている。
方法1:複数のプレイスルーを生成し、共通部分をビデオゲーム-真理とする。
この方法だと、プレイスルーの内容が偶然偏った場合正しく特定できない。
方法2:あらゆる「可能な」プレイスルーにおいて真となる虚構的真理をビデオゲームの真理とする。
この方法にも問題がある。なぜならプレイスルーにはそのプレイスルーを通じて提示されない虚構的真理も含まれるからだ。例えば、『Dragon Age: Origins』ではアリスターに妹がいるが、プレイスルーによってはそのことは明らかにされない。しかし、そうであったとしても、(どのプレイスルーにおいても)アリスターに妹がいるという事実には変わりがないだろう。この場合、あるプレイスルーでは表象されないビデオゲーム-真理がある事になる。
この問題はプレイスルー間で矛盾しない虚構的真理をビデオゲーム-真理に含めることで解決できるはずだ。
方法3:少なくとも1つの可能なプレイスルーに存在して、かつ他のどのプレイスルーと矛盾しない虚構的真理をビデオゲーム-真理とする(逆に少なくとも他のプレイスルーの1つと矛盾する場合はプレイスルー-真理となる)。
ウォルトンのフィクション論に反論
ウィリスは最後にケンダル・ウォルトン(Walton 1990)のメイクビリーブ論がビデオゲームのフィクションのあり方を説明できないとして、いくつか反例を挙げている。
その1
- プレイスルー:ゲームプレイにおいて直接経験の対象となる。メイクビリーブの小道具として機能する。
- ビデオゲーム:経験の対象とはならない(例化なしに受容できない)。小道具として機能しない。
- ビデオゲームは小道具として機能しない点でウォルトン・フィクションではないが、その一方でフィクションの内容(ビデオゲーム-真理のこと)を持っている。
その2
- プレイスルーにおいて真である虚構的真理には、そのプレイスルーで表象されない虚構的真理が含まれる(ことがある)。
- ただ、このような虚構的真理はウォルトンの虚構的真理の定義を満たさない。ウォルトンは、その作品が小道具として機能する「あらゆる」メークビリーブゲームにおいて虚構的であるものを、その作品における虚構的真理であると定義しているが(Walton 1990, 60)、プレイスルーで表象されない虚構的真理はそのプレイスルーを小道具として行われるあらゆるメイクビリーブゲームにおいて真であるとは思われない。
このあとウィリスはその2を踏まえ虚構的真理の必要十分条件を提案しているが、長くなるので省略。
2. ウィリスに対する反論と再反論_リックサンド(2020)、ウィリス(2020)
ここからはおまけで、マリッサ・D・ウィリスとマーティン・リックサンドの議論(+僕の見解)を取り上げる。
リックサンドの反論1「ビデオゲーム-真理、プレイスルー-真理の区別は必要か」
リックサンドは、『Mass Effect』におけるシェパードの性別の問題はウォルトンの理論で十分に説明できると論じている*4。
- 方法1:
ウォルトンによると、両者の同時発生(Pかつnot P)を想像する指定なしに、虚構的な命題(P)を想像する指定とその否定(not P)を想像する指定が可能である(walton 1990, 64–66)。『Mass Effect』の場合、シェパードは男性であるとも女性であるとも示されているが、その同時発生は示されていない。シェパードの性別はこうしたフィクション一般に見られる矛盾の1つとして説明できる。 - 方法2:
フィクションの不確定性に訴えることにより説明ができる。ウォルトン(1990, 181)は、演劇において昔の登場人物を演じる俳優が現代の服を着ていたとしても、その登場人物の服が現代のものであることは虚構的に真にはならないだろうと論じている*5。ウォルトンはこの場合登場人物の服について特定の虚構的真理はないと考えている。このように、シェパードの性別についても不確定であるという説明ができる。
リックサンドの反論2「ビデオゲーム-真理の特定の仕方に問題がある」
リックサンドの反論に対し、ウィリスも再反論している。
- 反論1について:
『Mass Effect』(作品自体)についてリックサンドの指摘(不確定or不完全)に同意する。しかし、『Mass Effect』のプレイスルー(事例)では、シェパードの性別は不確定ではない。プレイスルーにおいて、シェパードはプレイヤーが選んだ特定の性別であると想像するように指定されているはずだ。筆者が「プレイスルー-真理」という用語を作り出したのはまさにこの種の事例のためである。
また、この区別を踏まえるとウォルトンの俳優と登場人物の服装についての主張にも異議が唱えられる*6。なぜこの上演においてオイディプスがジーンズを履いていることをメイクビリーブしてはならないのか。このことを上演-真理と呼べるのであれば、『オイディプス王』(戯曲)や他の上演に何も影響を及ぼさないはずである。 - 反論2について:
リックサンドは「可能なプレイスルー」と「実際のプレイスルー」を混同している。リックサンドは筆者が表象を虚構的真理の生成の必要条件でも十分条件でもないと考えていると主張しているが、筆者の主張の一部を誤解している*7。私が主張したのは、「少なくとも1つの可能な」プレイスルーでの表象が何かがビデオゲーム-真理にカウントされる必要条件(十分条件ではないが)であるということである。
リックサンドは「矛盾」の条件について心配しているようだが、ビデオゲーム-真理にカウントされるもの(矛盾しないもの)は、プレイヤーが操作するキャラクターの行為ではなく、ゲームの世界やそのリニアなストーリーラインについての情報が主だろう。
リックサンドが提案した代替案は直感的で経済的だが、プレイスルー-真理の存在や重要性を否定するものではない。あと、ビデオゲームがウォルトンの理論の反例となるという主張に対する直接的な反論は提示されていない。
3. 僕が思ったこと
おまけのおまけ。ウィリスやリックサンドの議論に対する僕の見解や僕の論文で出てきた概念(ゲーム環境/物語世界)の関係など。
ビデオゲーム-真理 / プレイスルー-真理に分ける理由ついて
リックサンドの反論1を読んで感じたのは、ウィリスが虚構的真理をビデオゲーム-真理/プレイスルー-真理に分類する目的がいまいち伝わっていないような感じがするということだ。
ウィリスの目的の1つはプレイヤーの解釈の実践を説明することだろう。例えば、『Mass Effect』においてシェパードの性別はある意味で不確定で、ある意味で確定しているとも言えるが、この「ある意味」がビデオゲームとプレイスルーの区別で説明できる。ウィリスはこうした話をちゃんと本文に書いてあるけど、ここら辺があんまり伝わっていない感じがする。
他にもウィリスはウォルトンの理論の反論を示すことを目的に据えているが、そこら辺がうまくいっているかはわからない。ウォルトンの「愚かな質問」の一例を自身の理論で説明しようとしている箇所も見られるが、ここら辺は本来の目的ではないと思う。
ビデオゲーム(作品)はウォルトン・フィクションではないについて
ウィリスのもう1つの目的に関わる話。ウィリスは(作品)ビデオゲームがフィクションである一方で、ウォルトン・フィクションの条件を満たさないことをウォルトンの理論の反例に挙げている。「ビデオゲームがフィクションである」を正確に言うと、ビデオゲームがフィクションの内容を持っているということで、このフィクションの内容というのはビデオゲーム-真理のことだ。
ただ、ここで疑問なのは作品(もっと言うなら物体)としてのビデオゲームはそもそもフィクションだとか、ウォルトン・フィクションだとか言えるのかということだ。例えば、虚構世界の出来事を表象する映画はフィクションだが、この時「映画」と呼ばれているものは芸術形式のことであり、それが映画の上映なのか、上映の元となる物体(フィルム、DVD、データーなど)なのかは普通問わない。ウィリスの理論に従うならばDVD(あるいはビデオテープ)もウォルトンの反例になると思うのだが、プレイヤーで再生して映像を見ることが DVDの適切な鑑賞である以上、DVD単体でフィクションか否か問うのはナンセンスであるように思われる。
ウォルトンの「愚かな質問」の引用について
同じ俳優の見た目についての言及だからだと思うが、同じ戯曲の上演が異なる虚構的真理を持つことがあるという話と、ある上演において舞台の内容の一部が虚構的真理にならないことがあるという話が混同されている。ウォルトンが「愚かな問い」でしているのは後者の話であり、元になる戯曲や他の上演は関係がないはずである。
どこまでを虚構的真理にカウントするのか
ウィリスは表象されていないがそのプレイスルーにおいて虚構的に真になる内容について論じられているが、逆のパターン、つまり表象されているがそのプレイスルーにおいて虚構的に真ではない内容については特に論じられていない。ウィリスは「愚かな問い」に対する反論で、昔の登場人物を演じる俳優が現代の服を着ていることを、戯曲-真理と上演-真理の区別で説明しようとしていたが、上で説明したように「愚かな問い」を説明する意図はだぶんないだろう。ビデオゲーム-真理・プレイスルー-真理にこれ以上の特徴づけがされていない以上、ウィリスがこの点についてどう考えていたかはわからない。
ただ、おそらく表象されている内容が全部そのプレイスルーにおいて虚構的真理としてカウントされているわけではないだろう*8。
参考文献
- Hogenbirk, Hugo Dirk, Marries Van de Hoef, and John-Jules Charles Meyer. 2018. “Clarifying Incoherence in Games.” Journal of the Philosophy of Games 1 (1). https://doi.org/10.5617/jpg.2653.
- 倉根啓(2023)「ゲームプレイはいかにして物語となるのか」『REPLAYING JAPAN』 5巻:109–119
- 松永伸司(2013)「マリオはなぜ三つの命を持たないか」researchmap、2013年7月30日、最終閲覧日:2021年10月19日、https://researchmap.jp/multidatabases/multidatabase_ contents/detail/243574/37c086702616b25960923bd0 7d85c983?frame_id=726294#:~:text=matsunaga_201 3_mario_three_lives.pdf
- Ricksand, Martin. 2020. “Walton, Truth in Fiction, and Video Games: A Rejoinder to Willis.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 78 (1): 101–5. https://doi.org/10.1111/jaac.12707.
- Walton, Kendall L. 1990. Mimesis as make-believe: On the foundations of the representational arts. London: Harvard University Press.
- Willis, Marissa D. 2019. “Choose Your Own Adventure: Examining the Fictional Content of Video Games as Interactive Fictions.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 77 (1): 43–53. https://doi.org/10.1111/jaac.12605.
- Willis, Marissa D. 2020. “The Importance of the Playthrough: A Response to Ricksand.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 78 (1): 105–8. https://doi.org/10.1111/jaac.12691.
*1:ウィリスは「台本(script)」とも呼んでいるが、ややこしいのでここでは「戯曲」で統一する。
*2:ウィリスの記述を見るにおそらく両者は背反の関係のはず。
*3:ウィリスが“playing”ではなく“playthrough”を用いる理由は、「ビデオゲームをプレイするという行為」と「その行為が生成する表象」を区別するため(Willis 2019, 45)。
*4:ここに関してはリックサンドの反論はあまり説得力がないと思う。
*5:なぜかリックサンドはこの話を同じ戯曲における上演間の違いとして挙げているが、後述するように、両者は関係ないだろう。
*6:ここに関しては、たぶんウィリスもリックサンドと同じようにウォルトンの議論を誤解しているように思われる。
*8:ここら辺の話は、松永(2013)、ホーゲンビルク、ヴァン・デ・ホーフ、メイヤー(2018)、倉根(2023)を参照。ウォルトンの「愚かな問い」もこれについて一部扱っていると言える。