(多少頑張ってまとめていますが、どこまで持つかわかりません。けっっして鵜呑みにしないように)
虚構性とは何か?考えられる答えは二通り*1。
- フィクションはそれによって指示される存在物が特有の存在論的地位を占めていることを指す。
->指示説(refeerential theory) - フィクションはある種の意図に基づいた伝達行為の類型の一つである。
->現象学的・発語内的行為論的研究を要する内包的な理論
1.1. 虚構指示説
直感的・一般的な回答はこっち。
この説明では現実世界(actual world)において偽である陳述からは虚構が生じることになる。もちろん、この定義では間違いや嘘を(話者の意図を抜きに)虚構から除外できない。
この説明により、間違いや嘘の陳述は(命題は偽であるが)あくまで客観的存在物を指示しているとして除外できるはず。架空の存在物に対する指示について、フレーゲ的立場をとる。
フレーゲ流の立場では、指示が成功するかは、固有名が指示する対象が現実世界に存在するか否かにかかっている。
しかし、それだと虚構性は送信者・受信者の信念で決定されることになる(サンタにかんする陳述は大人にとっては虚構だが、子供にとっては事実となる*2)。また、虚構と現実の関係についての発言(「コナン・ドイルがシャーロック・ホームズを想像した」)も偽になってしまう。
フレーゲ流の立場には(要約すると)「実際の世界(actual world)に実在するものだけしか指示できない」という前提がある。トマス・パヴェル(1986)の分離派存在論(segregational ontology) では、それが現実の存在と架空の存在を指示しているかで、虚構かどうかを区別する。ただ、これも虚構と現実の関係についての発言(「ユニコーンは現実世界には存在しない」)を区別できないし、現実の事物が登場する虚構作品に対応できない。
虚構性という属性はそのテクストの意味領域(世界)に適用されるのだと考える。ただ、そうすると何を持ってテクストの意味領域が虚構であると決定されるのかという問題が起きる。指示論的研究と両立するには、意味領域が実際の世界から最低一つ離脱すると虚構であるとするしかないが、それでは最初の問題(嘘や間違いと区別できない)に逆戻りしてまう。
結局のところ、指示説を棄却して、現象学的方法(2.)を採用した方がいいのでは?
1.2 可能世界
可能世界論を虚構に応用する(本題)。
1.2.1 可能世界論とは
現実世界を無数の可能世界の一つとみなす考え。二十世紀哲学において意味論モデルとして再発見された。
以下、クリプキらによる意味論モデル(M-モデル)
- 様相演算子
□:必然性(necessity)、◇:可能性(possibility)
例:信長は本能寺で死ななかったかもしれない
->◇信長は本能寺で死ななかった
独身者が結婚していることはあり得ない
->□もしxが独身者なら、xは結婚していない - モデル
K:《もの》の集合、 G:Kの要素の一つ、R:Kの要素同士の関係
としたら
K:全可能世界の集合、G:実際の世界、R:到達関係
となる
このように考えると命題の真理値は各可能世界ごとに切り離して決められる。
(a)世界WにとってW'が到達可能で、AがW'において真であるような可能世界W'が最低ひとつあるとき、そのときにかぎり◇AはWにおいて真。
(b)世界WにとってWが到達可能であるようなあらゆる世界W'について、AがW'において真であるとき、そのときにかぎり□AはWにおいて真。
1.2.2 可能世界論と虚構の関連
プランティンガやアダムズはそれぞれ《本》《ストーリー》の比喩を用いて、可能世界を説明している。彼らの話をまとめると<その世界において真であるようなあらゆる命題の集合>となる*3。
デイヴィッド・ルイスは「可能世界実在論」で、可能世界を実際の世界と存在論上の違いはない自律した存在物と考えている。実際の世界と他の可能世界(代替可能世界:APW*4)は、自分がその世界にいるか否かで区別される。
諸可能世界の体系全体を宇宙、一つの可能世界を星に喩えると、実際の世界は可能性の宇宙の中心に位置し、諸APWは実際の世界の周囲を回る衛星であると考えられる。そして、宇宙総体の中心はその諸天体の一つに移動することができる*5。
ルイスに対し、ニコラス・レッシャーは可能世界を絶対的な存在物としてではなく、精神の構築物として見ようとしている。この立場では、信念や知識(認識世界)も可能世界の一つということになる。また、可能世界は実際の世界と違い不完全な世界ということになる(プランティンガ、アダムズ、ルイスは完全であるという立場)*6。
1.3 中心移動
レッシャーとルイスの立場は虚構理論にとってどっちが有用なのか。
レッシャーの立場(精神の構築物説)は現実と虚構は存在論的に異なる(虚構世界は想像の産物に過ぎない)という直感に合っている。一方で、われわれは虚構に一度没頭すると、虚構世界が実際の世界に取って代わる(ように感じられる)*7。この場合はルイスの可能世界実在論の方が説得力がある。《虚構世界について知っていること》と《虚構世界とのかかわりかた》の間には食い違いがある。
われわれが虚構作品に没頭するあいだ、可能性の領域は語り手が《実際の世界》として指示する領域へと中心移動している。読者はこの中心移動によって、実際性・可能性の新しい体系へと押し入れられる。虚構の読み手は《実際の世界》だけでなく、それを取り巻く多様な諸APWも見出すことになる。これを説明するためにテクスト宇宙(textual universe)という語を導入する。
「虚構世界」は虚構テクストが投影するテクスト宇宙における実際の世界ということになる。
1.4 ごっこ遊びと虚構の二重性
レッシャーとルイスの立場はどちらも虚構宇宙の本質を表しているように思える。そうであるならば、両者の乖離はなぜ起きているのか。ケンダル・ウォルトンの虚構をごっこ遊び(make-belive)の理論がそれを解決する。
ごっこ遊びのゲームが始まると、子供たちはそれがバケツで固めた砂であることを知った上で、それがケーキであるかのようにふるまう。虚構でも同様に、ゲームが始まると、われわれはテクスト宇宙全体が架空の代替物に過ぎないことを承知の上で、テクスト宇宙の《実際の世界》が実際の世界であるかのようにふるまうのだ。
これにより、われわれは実際の《実際の世界》がある様相体系と、(虚構or非虚構の)テクストが作り出すテクスト宇宙の様相体系を区別することができる*9。
1.4 中心移動と言説類型論
三つの様相体系とその体系の中心世界(その体系における実際の世界)を区別する。
- われわれがいる世界の体系
中心世界:実際の《実際の世界》(AW:actual world) - テクスト宇宙の体系(テクストが提示する体系)
中心世界:テクストの実際の世界(TAW:textual actual world) - 指示対象宇宙(テクストが表象しているもとの体系)
中心世界:テクストの指示対象世界(TRW:textual reference world)*10
さらに、テクストには内包された話者(IS:implied speaker)がいて、実際の送信者(AS:actual sender)と区別できるものとする。
以上の四つの区別からミメシス言説(mimetic discourse)*11を分類することができる。ミメシス言説の説明と分類の詳細は興味ないので省く。以下、p.55の図の条件文の説明。
- テクストが表象する内容(世界)と実際の世界が一致する(TAW=AW)
- テクストは実際の世界について述べている(AW=TRW)
- テクストが表象する内容(世界)がテクストが指示している世界と一致している(TAW=TRW)。
- 送信者が意図的に偽の内容を述べていない、かつ送信者が内包された話者を装っていない(AS=IS)。
この四つの条件文を用いることで、非虚構の正確な言説、間違い、嘘、偶然真になってしまった嘘、虚構、実話もの、虚構の信頼できない語りを分類することができる。
TAWにはふた通りの解釈がある。《テクスト全体が記述するもの》をTAWとみなすか、《語り手が記述するもの》をTAWとみなすのか。前者の場合はTAWとNAW(語り手の実際の世界*12)を区別しないといけない。信頼できない語りでは、TAWとNAWが一致しない可能性がある*13。
むしろ、信頼できない語りは内包された話者の領域で起きる間違いや嘘なのではないだろうか。そうすると、(送信者が扮する)語り手が語り手の《実際の世界》ではなく、別の新しい《実際の世界》を指示するケースについても考えなければならない。
本稿での虚構の定義(虚構はTAW≠AW、AW≠TRW、TAW=TRW、AS≠IS)は虚構指示説に逆戻りしているように思えるかもしれないが、「指示」の特徴づけの点で異なる。虚構指示説では指示は外延*14と同義とみなされ、話者の意図は関係なかったが、新案では指示は話者の行為の一つであると見なされている。ここでの指示とはどの世界について命題行為を行うのかを話者が選択することである。したがって、嘘や間違いもAWを指示するものとして、AWを指示していない虚構とは区別される*15。
*1:二つの説明それぞれ、清塚さんの『フィクションの哲学 改訂版』(2014)の意味論・語用論に対応している。
*2:サンタの例は実際どうなんだろ...。大人は(やさしい)嘘をついて、子供はそれを間に受けていると言うことでいいのか?。
*3:これは僕がまとめた。
*4:alternative possible worlds
*5:おそらくここでの移動は実際の世界からAPWのひとつに視点を移動させること(もっと雑にいうとAPWをイメージすること、APWに没入すること)だと思われる。
*6:完全であるとは、あらゆる命題について真か偽かのいずれであること。実際の世界はこの意味で完全なのだが、フィクションの世界ではフィクションが表象する内容だけでは真偽が確定できない命題が想定される。そのため、フィクションの世界は完全なのか否か、完全であるなら一見確定できない部分についてはどう解釈されるのかという問題が、フィクションの哲学の議論でなされている。
*7:ここで言っているのはおそらくわれわれは虚構に没頭している時、虚構世界を単なる作り物ではなく、あたかも現実の物事と同じように考える態度のことを指しているのだと思う。ライアンはその例として登場人物への感情移入を挙げている。
*8:「テクストによって出現させられた」という表現にかなりの含みを感じる。というか普通に説明がほしい。
*9:ライアンは虚構世界を実際の世界(われわれの世界)のAPWの一つに位置づけるのは誤りであると主張しているが、直感的に正しいと思う。
*10:「提示」と「指示」の違いは、「提示」がテクストが(記号論的に)表象する内容に関わるのに対し、「指示」はテクストが<何について>陳述しているのか、つまり意図に関わっているのだと思われる。例えば、そのテクストがわれわれの世界について陳述しようとしている時、AWとTRWは一致し、虚構の世界について陳述しようとしている時、AWとTRWは一致しない。また、そのテクストが陳述した内容が(そのテクストがどの世界について述べているのであれ)そのテクストが指示している世界(TRW)において偽であるならば、TAWとTRWは一致しない。それにしてもライアンの説明わかりにくい...。提示と表象の違いくらいは説明してほしかった。
*11:たぶんその世界の事実や存在物についての命題くらいの認識でいいと思う。
*12:narratorial actual world
*13:ライアンはこの場合TAW=TRWとなるのではと言っているが、読者が信頼できない語りの中でTAWを構築することそれ自体が困難であるため、そもそもTAWとTRWの関係をはっきりと特定できるのだろうか。
*14:「xを指示している=xはAWにおいて外延を持つ=「xはAWにおいて存在する」という命題は真である」という説明が本書でされていたが、面倒なので省いてしまった。
*15:関係ないけど、この章の最後の図って、一見わかりやすくできているように見えるけど、実は混乱を引き起こしかねない作りになってない?