フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

「ビデオゲームのフィクションを分割する」反省会

発表スライド:https://drive.google.com/file/d/1eceT5cVtBM7bu-VQoKyNiME4HXC8GMND/view?usp=sharing

発表原稿*1https://drive.google.com/file/d/1Mx5xcOr_R3dxP10denRaBz1Mp1TbdFKl/view?usp=sharing

 

0. はじめに

 11/17に立命館で行った発表会の反省会。

 発表自体は修士論文と今年の『REPLAYING JAPAN』の内容をまとめて多少追加しましたくらいのもので、新規性はそんなにない。ただ、対面で実際に意見を交わす中で、自分の直感がどこまで共有可能なのか、自分の理論がどこまで説明できるのかがある程度はっきりしたので、発表して良かったと思う。

 あと、参加者の方からいただいた質問やコメントもどれも的確で、聞いていてすごく嬉しかった*2。研究について議論できる機会は本当に少ないので、参加してくださった皆様には本当に感謝しています。ありがとうございました。

1. 発表の補足

イントロの事例について

 『ドンキーコング』以外の事例(『ゼルダの伝説 風のタクト』『戦場のヴァルキュリア4』『スカーレットネクサス』)、いずれも自分が実際にプレイして「なんかおかしくない?」と思ったものを上げている。

 『風タク』は修論でも言及した。他の『ゼルダの伝説』ではなく『風タク』を上げたのは、作中でバクダンに関する言及が多いから。草から出るバクダンが作中で提示される他の事実と矛盾することが示せるので、具体例としてわかりやすい。

 『スカーレットネクサス』でアジト(拠点)での会話を上げたのは、後に出てくる知覚可能性・言及可能性の議論でも取り上げたかったから。キャラクターが言及していること全てを物語世界に含めると、明らかに非整合的な内容を含めることになるのを示したかったが、発表では特に言及することはなかった...。

ゲーム環境は虚構世界の一種ではない

 これは発表の仕方が悪かったが、僕はゲーム環境を「虚構世界」の一種として定義したわけではない(「少なくとも言葉の上では「ビデオゲームの世界」をこっちの意味で使うこともある」(スライド, 12)などで、「言葉の上で」と言っているのはそういうこと)*3

 ある概念が虚構世界であるかどうかは、最終的には虚構世界の定義次第になると思う。ゲーム環境はフィクションの哲学で上げられているような虚構世界の特徴(ある程度の整合性、空所補充がされるなど)を持たないため、僕は虚構世界の一種とは考えていない。ただ、(多くのビデオゲーム研究がそうしているように)ウォルトン・フィクションを採用する場合は、ゲーム環境は虚構世界の一部ということになるだろう*4。とはいえ、そこで何か議論に重大な問題が生じるわけではなさそうなので、あまり気にすることでもないかもしれない。

レイヤー型、舞台型(p. 36–37)について

 これは(僕の)これまでの研究になかった新しい論点。表象内容の集合(提示された空間)*5と物語世界の関係は2種類(レイヤー型、舞台型)に分類できて、ビデオゲームは舞台型の側面が強いのではという話。

 この分類は指導教官と物語世界(Diegesis)について議論していたときに思いついた。僕がdiegeticで区別したいのは、主にゲームプレイで起きた出来事が実際に物語世界で起きているか否かということだが、それは他のビデオゲーム研究におけるdiegeticな音やインターフェースの区別とは少し違う気がする*6。ある音やインターフェースが物語世界にあるか否かを議論しているとき、「その音が鳴った」ことや「そのインターフェース(の役割を担っているモノ)を使った」ことが実際に物語世界で起きたかどうかはあまり問題になっていないと思う。この違いを説明したいというのが動機の一つにある*7

舞台型(p. 37)の具体例について

 舞台型の具体例として『雨に唄えば』を上げたが、たぶんあの作品では実際に踊っている。なので、具体例としてはあまり良くないのだが、ミュージカル映画に全然詳しくないので、これを上げる他なかった...。今思えば『リョーマ! The Prince of Tennis 新生劇場版テニスの王子様』を上げれば良かったのかもしれない。

「フィクションが重なる時 in ビデオゲーム」について

 これも新しい話。ここでの話を要約すると、本来物語世界にカウントされない出来事が事後的に物語世界に組み込まれるような表現(「フィクションが重なる」*8)がビデオゲームにもありますよといった感じになると思う*9*10

 当初はフィクションが重なる条件を詳しく論じる予定だったが、時間がなさそうなので発表ではしなかった。当時考えていたのは、表象内容の集合から物語世界にカウントされる基準は複数考えられる(知覚可能性、言及可能性、一貫性、現実性原則etc...)が、それらには強弱があって、基準間で食い違いが起きた時により強い基準が採用されるといった感じのこと。

 例えば、『SIROBAKO』の場合、人形が動いたり喋ったりすることは主に現実性原則に反していて、この点で通常物語世界にカウントされないが、人形のロロによる叱咤は一貫性の観点から物語世界に組み込まざるを得なくなる。この時、現実性原則より一貫性が強い基準として採用されている。『クロノ・トリガー』の場合も、一貫性が重要な基準になっていると思われる*11。裁判で取り上げられることにより、プレイヤーが行った行動と物語内容の間に因果的なつながりが生じ、一貫した解釈をとるためにはプレイヤーの行動を物語世界に組み込まなければならなくなる。

 基準の強さが厳密に決まっているかなど詳細は正直謎だが、たいていのケースでは、フィクションが重なり合う現象は、(diegeticな)キャラクターが触れたり言及することで起きるのだと思う。

2. 実際に来た質問・コメント

 覚えている限りで質問やコメント(+返答)を紹介する*12

スライド(p. 22)のまとめがシノハラの議論に寄りすぎているのでは?

 発表ではP/Dキャラクタの話と分離された虚構世界/物語世界の話のまとめとしてこのスライドを提示したが、指摘の通り、実際は両者の議論のまとめにはなっていない。僕が実際にやったのは、基本的にはシノハラ(2021)が提示した枠組みに則りながら、松永(2016)の議論を持ち出し表象内容のレベルが個別の対象とみなされうると論じたことだ。スライドでこの議論をどう位置付けたらいいのか自分自身よくわかっていなかったのだと思う。

アニメとビデオゲームでは「表象内容の集合」や「分離された虚構世界」の役割が違うのでは?

 指摘の通り、表象内容の集合や分離された虚構世界が果たす役割はメディアによって(さらに言うなら作品、場合によっても)だいぶ違うと思う。アニメの場合は、主に物語世界の内容の説明や演出に使われると思うが、ビデオゲームの場合は、何よりもゲームメカニクス(の一部)を表す役割が大きいだろう。

 質問者がこの指摘をしたニュアンスとしては、物語世界外の内容が果たす役割が大きく違うのに両者を同じ枠組みで説明できるのかといった感じだったと思うが、現状「役割がいろいろある」以上の説明は必要ないと思う*13

同じフィクションが重なり合う事例でも作品によって経験の質はだいぶ異なるのでは?

 『クロノ・トリガー』の王国裁判は雑に言うとびっくりした経験だが、これは一般的にはポジティブな評価を受けている*14。逆に、物語世界への事後的な組み込みがプレイヤーにネガティブに評価されることもあるのでは、という感じのコメントだったと思う。

 ネガティブな例としてコメントで上げられたのは『オウガバトル64』のカオスフレームで、これはプレイヤーの行動で民衆の支持率が変化しエンディングの分岐にも関わるが、『オウガバトル64』では隠しパラメーターになっている*15。参加者の一人はそのことを知らずにプレイした結果バットエンドになり、そこで始めてカオスフレームの存在に気が付き理不尽に感じたというものだった(覚えている限りではこんな感じ)。

 これについてはいくつか意見が上がった。まとめるとこんな感じ。

  • ゲームとして理不尽なのでは
     カオスフレームはゲームの目的に関わる重要なルールなのに、それが確認できないのはゲームとして理不尽なのではないだろうか。
  • ゲームプレイと物語世界の間にはある種の一貫性が要求されるのでは
     負けイベが嫌われるようにゲームプレイの結果と物語世界の出来事の間にはある種の一貫性が要求され、それが裏切られると理不尽に感じるのではないだろうか。

 いくつかと言ったけど、覚えている限りでは主に2つだった...。

リセットはどう説明される?

 これに関してはゲーム環境/物語世界の出番ではないと思う。リセットは基本的には事例の違いとして説明することになると思う。

 ビデオゲームにおいて経験の対象となる実例はゲームプレイだが、このゲームプレイが持つ内容の一部は個々のゲームプレイごとに異なる。これはゲームプレイの内容の一部がプレイヤーによって決定されるからである。

 プレイヤーはゲームをリセットすることでセーブ地点まで戻ることができるが、この時点でリセット前とリセット後のゲームプレイは異なる事例として区別することができる。個々の事例が持つ内容はセーブ前までは同じだが、それ以降は異なる。フィクションについても同様のことが言えるはず。

 ビデオゲームのフィクションにおける作品と事例の関係については、Willis (2019)やNader (2022)を参照。本ブログでも多少取り扱っている。

プレイ経験と物語の経験にはある種のつながりがあるのでは?

 例えば、『428 封鎖された渋谷で』では、トゥルーエンドに至るルートで起きた出来事だけを考えると物事がうまく進み過ぎであるように思えるが、プレイヤー自身はそのルートに至るまで何度もバットエンドを踏みリトライしているため、プレイヤーの経験のレベルではそこまで違和感はない。このように、プレイ経験と物語の経験に何らかのつながりがあるのではないだろうか。こんな感じの質問があった(こんな感じかはちょっと確かではない...)*16

 確かに何らかのつながりはあると思うが、その詳細を明らかにするのは結構難しいと思う。発表の時はこれに関して特に回答をしなかった。ただ今思ったのは、こういう話はひょっとしたらビデオゲームに限った話ではないのではということ。というのも、小説や映画でも出来事の提示方法で物語内容に対して抱く印象はだいぶ変わるからだ。単純に同一視できるわけではないが、ビデオゲームにおけるある種のつながりも物語言説や語りの手法の一つとして説明できるかもしれない。

今回の発表で対象とする作品には暗に限定がかかっているのでは?

 今回の発表で対象とする作品はビデオゲーム全体ではなくある特定の作品群に限られるのではという指摘があった。実際その通りでこういった話はあらかじめするべきだったが、準備段階だとあんまり考えていなかった。

 コメントでは対象作品の特徴づけがいくつか提案されたが、これがかなり的確だったと思う。

  • 虚構世界を持つ。
  • プレイヤーが操作可能なキャラクター(「アバター」と呼んでいた)がいて、ゲームの空間内を自由に動き回れる。
  • ノベルゲームのように選択肢のみによってゲームが進行しない。

解釈の基準には「世界観に沿っているかどうか」なども考えられるのでは?

 例えば「マリオの3つの命」や「草からでるバクダン」は、実際にその世界にあると考えるとその世界の世界観を破壊してしまうだろう。このようにプレイヤーは物語世界について「世界観」をある程度想定して、これが解釈の基準になっているのではないだろうかという指摘があった。これはその通りで発表でもきちんと言及すべきだったと思う。

 質問者の指摘について、「世界観」という言葉は用いられていないがフィクションの哲学では似たような議論がある。

 (ここから少し長い...)

 私たちはフィクションで提示されていない内容についても、ある程度補って解釈している。例えば、小説で登場人物の足が何本あるかについて特に言及がなくとも聞かれたら「2本ある」と答えるだろう。そこではフィクションが提示しない空所を補充する何らかの規則が働いているはずである。

 フィクションの哲学ではこの規則がいくつか提案されている。代表的なのは現実性原則(Walton 1990; Lewis 1983)やジャンルの知識(Currie 1990)などだろう。現実性原則はものすごくざっくり言うと、フィクションで提示されていない箇所については現実世界と同じと解釈するという原則。『シャーロックホームズ』の舞台は架空のロンドンだが、私たちが言及されずともこのロンドンが現実の(当時の)ロンドンと多くの特徴を共有していると考えるのは、現実性原則によるものだろう*17。ジャンルの知識も、現実性原則と同様にそのジャンルについての知識が空所補充に参照されるというもの。ある作品でドラゴンが登場したとして、その作品で言及がなくともそのドラゴンが火を吹くと解釈される場合、その解釈にはそのジャンル(ファンタジー?)の知識が参照されている。

 シノハラ(2021)はこれらの規則がある内容が物語世界に含まれるかについての判断基準にも使われていると論じている*18。「世界観」で言わんとしていることは現実性原則やジャンルの知識による判断に近いのではないかと思う。

事例もっと上げて

 ゲーム環境/物語世界の説明が全体的に抽象的でわかりにくかったので具体例をいくつか上げて欲しかったというコメントをいただいたが、それはそうなので申し訳ないです...。次回(あったら)はもっとしっかり準備します。

3. その他

 質疑応答で物語や物語における一貫性について私見をいくつか述べた。これから執筆するテキストにも関わる内容なので、ここでは概要だけ示す。

「物語」で指している概念を区別するべき

 研究の内外問わず「物語」で指されている概念が複数ある。これらは互いに無関係ではないが区別するべきだと思う*19

 

  1. 一貫した形で理解できる出来事の表象
     小説や映画などの物語作品や歴史記述、私たちが日常で起きた出来事を語ることなどは①に当てはまる。
  2. フィクション
     虚構世界を表すものという意味でのフィクションと物語が同じ意味で使われることがある。「フィクション」という用語が既にある以上、この意味で「物語」を使うのは避けたほうがいいと思う。
  3. 出来事や経験を理解する方法、モード(物語的理解)
     私たちは物語を受容するとき、物語が提示する出来事をある特定の形(一貫性)で理解している。この種の理解は物語で語られる出来事に限らず、現実で起きた出来事や経験に対してもなされる。歴史哲学や心理学の分野において、「物語」で議論されているのはこっちの方だと思う。
     また、物語的理解によって理解される出来事や経験の方を「物語」と呼ぶこともある。この意味での「物語」は物語が語る出来事(物語内容)や現実で起きた出来事や経験が該当する*20

ゲームプレイの出来事やプレイ経験を物語として理解することについて

 研究の分野かそうでないかにかかわらず、ゲームプレイで起きた出来事やゲームプレイの経験が「物語」として語られることが結構ある。ビデオゲーム研究で言うなら、創発的物語やプレイヤーストーリー、プレイ経験の物語化とかが該当するだろう。

 これらが物語的理解の対象になること、あるいは物語的理解により理解されることがあるのは間違い無いと思うが、それらがどのようにして理解されているか、その一貫性の中身についてはあまり議論されていないと思う(僕の勉強不足かもしれないけど...)。

 例えば、マリオがキノコを取った時、なぜマリオがキノコを取ったかは普通プレイヤーの観点から説明されると思う。つまり、「なんでキノコ取ったの」の回答は「プレイヤーがマリオをパワーアップさせるため」であり、「マリオがパワーアップしたかったから」とはならないと思う*21。この時、ゲームプレイで起きた出来事の理解において、一貫性を与えているのは虚構世界内の存在物ではなく、現実にいるプレイヤー自身であるように思われる。

 「創発的物語」や「プレイヤーストーリー」で議論されている「物語」において他のメディアにない特徴として強調されるのは、物語の出来事がプレイヤーとのインタラクションにより決定されることだが、実は解釈のレベルでも相当特殊なことをやっているのではないだろうか。

参考文献

・Currie, Gregory. 1990. The Nature of Fiction. Cambridge, England: Cambridge University Press.

井上明人(2017)「ゲームから物語へ(2) | 井上明人」note、2017年11月9日、最終閲覧日:2023年1月22日、 https://note.com/wakusei2nd/n/nbb36af42f93b

・Lewis, D. (1983). Philosophical papers. New York: Oxford University Press.

・松永伸司(2016)「キャラクタは重なり合う」『フィルカル』1巻、2号、76‒111頁

・Nader, Karim. 2022. “Video Game Fictions: A Dual-Work View.” Journal of the Philosophy of Games 4 (1). https://doi.org/10.5617/jpg.9230.

・シノハラユウキ(2021)『物語の外の虚構へ』logical cypher books 02

Walton, Kendall L. 1993. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. London, England: Harvard University Press.

・Willis, Marissa D. 2019. “Choose Your Own Adventure: Examining the Fictional Content of Video Games as Interactive Fictions.” The Journal of Aesthetics and Art Criticism 77 (1): 43–53. https://doi.org/10.1111/jaac.12605.

Walton, Kendall L. 1993. Mimesis as Make-Believe: On the Foundations of the Representational Arts. London, England: Harvard University Press.

 

 

*1:今回は特に後半発表原稿を無視して話していたので、あんまり参考にならないかも...。

*2:僕自身がそれに対して適切な受け答えができていたかと言うと割と微妙で、そこは申し訳ないです。

*3:つまり、「日常的な用法のレベルで「(虚構)世界」がこのように言われていますよね」と言っているだけで、そのことが専門用語としての「虚構世界」と同じ概念であることを意味しているわけではない。

*4:ビデオゲーム研究でよく見る議論として、あるものが虚構世界に含まれるのかについて「想像の指定があるか否か」を基準にするものが非常に多いのだが、実質的に基準にしているのが「プレイヤーが想像するか否か」だったり、「フィクションの内容の複層性」が論じにくくなっていたり、なんかうまくいっていないような気がする。

*5:今回は話の流れ上「表象内容の集合」で通したが、『REPLAYING JAPAN』の方ではこの概念は「提示された空間」と呼ばれている。「提示された空間」も話の流れ上そう呼んでただけに過ぎないので、なんかいい名称思いついた人は教えてください。

*6:ここら辺の話も後日まとめたい。

*7:もう一つの動機は発表で言及したように、慣習的な基準によって組み込まれないゲーム環境の出来事が、物語世界の出来事として解釈されないor重要視されないことを説明するため。

*8:発表では「フィクションが重なる」と呼んでいたけど、今確認すると理論を提案したシノハラ(2021)自身は「フィクションが重なり合う」と呼んでいた。これは単に僕が勘違いしていただけで、呼びがかたが微妙に違うことに特に意味はない。

*9:「事後的に組み込まれる」と書いたが、フィクションが重なる現象が本当に事後的に起きているのかは怪しい。事後的ではない組み込みもあるかもしれない。少なくともシノハラ(2021)はそのような説明はしていない。

*10:本発表で『クロノ・トリガー』を上げたのは、事例としての分かりやすさや面白さもあるが、井上先生の論考の影響が大きい(井上2017)。4章を思いついた直接のきっかけは、井上先生の論考を読んで王国裁判の経験を別の形で説明できないだろうかと思ったことだ。

*11:クロノ・トリガー』の場合は、一貫性だけでなく知覚可能性や言及可能性も大きく関わってくると思う。

*12:もう発表終わってから一週間以上経っているのでうろ覚えです。すみません。

*13:僕も修士論文で似たような話はしたのでいいたいことはわかる。

*14:コメントでポジティブな組み込みの例として上げられたのは、『undertale』(『moon』も上げられていたが、ポジティブな例であったかは覚えていない)だったと思う。『undertale』はメタフィクションの要素も強いので、どこまでフィクションは重なり合うものとして説明できるのかは検討が必要だと思う。

*15:逆に前作の『伝説のオウガバトル』では、カオスフレームは普通に表示されているので、プレイヤーはカオスフレームを確認しながらゲームを進められる。

*16:特に「つながりがある」みたいな話でまとめられるかは怪しい。

*17:もちろん『シャーロックホームズ』のロンドンが、「ロンドン」と呼ばれるだけの現実のロンドンとは全く異なる都市であるという解釈も可能だが、普通の読者はあまりそうは考えていないと思う。

*18:ここでいう現実性原則は、現実世界と同じでないものは物語世界に含まないということだと思われるが、この原則をあらゆる内容に適用すると、物語世界の内容で現実世界と異なるものは何もないことになってしまう。そのため、現実性原則のテストにかけられる内容には何らかの限定がかかっているはずだが、それについてはあまり論じられていないように思われる。

*19:なんなら「物語」なんて用語を使わずに議論した方が混乱が遥かに少なくなるだろう。

*20:この意味での「物語」の用法についてはさらに細かく分類する必要があると思っていて、少なくとも3つに分かれると考えている。a. 物語的理解の対象となる出来事や経験、b. 物語的理解により形成される心的表象、c. (①の意味での物語)が提示する出来事(物語内容)。aとcは同じものに見えるかもしれないが、aは出来事や経験をどのように理解するかは私たち次第だが、cは特定の形で理解されるように作者によってデザインされているという違いがある。

*21:「なんでキノコ取ったの」の時点で主語が暗にプレイヤーに限定されている気もするが、逆に「なんでマリオはキノコ取ったの」と聞いてもそれはそれで回答に困る気がする(マリオがどう思っているかなんてわからんし)。