先日読書会でGrant Tavinorの “Fiction and Narrative in Videogames” (Tavinor 2025)を読んだのだけど、参加者の反応があまりよくなく、レジュメを切った僕自身も理解できていないことがわかった。僕はレジュメを切る時は原文の議論の流れをそのまま残そうとするのだけど、今回に関してはもっとこちらで言い換えた方がよかったかもしれない。それで、悔しくて作り直しました。こちらです(↓)。正直原形が残っていないけど、ここまでやらないと(やっても)伝わらないと思う。
ビデオゲームのメタレプシスに関する議論のサーベイ
はじめに
メタレプシスについての自分で調べたことなどのメモ。元々はDiGRA JAPAN 2026の発表の*1ために下調べしたものだが、締切に間に合わなかった...。来年発表したいと思いますが、正直内容は大したことない*2のでモチベが持つかどうかはわからない。現在メタレプシスという用語はだいぶ大雑把に使われている印象があるが、拾うべきポイントはいくつかあり、特にメタフィクションの整理に応用できるのではないかと思っている。とはいえ、僕はメタレプシスにもメタフィクションにも興味がない*3ので、誰かやってください。
*1:『DiGRA JAPAN 2026』で発表しようと思ったのは、メタレプシスという概念自体日本ではあまり知られていないように思えるから。ビデオゲーム研究に絞るとなおさら。
*2:単に誤謬を指摘しているだけなので、論文にするほどの内容ではないかなと思っている。でもなんでこんな長くなってんだ?
*3:興味がないのになぜこんなことをやっているのかというと、昨年の美学会の反省がきっかけになっている。昨年の発表は、先行研究としてメタレプシスを取り上げて批判したのだが、あまり伝わらなかった。批判内容自体はメタレプシスが事例の説明に使えないということだが、反応を見るにメタレプシスに当てはまるかどうかを問題にしていると受け取られてしまった感じがする(司会の吉田先生に「ゲーム言及がメタレプシスかどうかは、メタレプシスの定義次第ですね」とコメントされてしまった)。そもそも先行研究批判パートを省略したのが原因なのだが、一方で、メタレプシスについてうまくできなかったのも問題だと思っている。メタレプシスについて調べたのは、発表の反省点を克服するためである。
美学会_感想2
全体的な話*1
前回の続き。自分の分野と近しい発表なので多少長くなると思います。
その前に、「分析美学3 フィクションの美学」の発表について補足*2。今回の発表はどちらもフィクションと主張の関係、その中でもフィクションは主張を行うことができるのかといった問題に関わる内容だったと思う。実際は、問いは①「作者がフィクションを通じて何かを主張することは可能か」と、②「読者はフィクションから現実について何らかの知識を学ぶことは可能なのか」*3に分かれるだろう。
こうした問いは、おそらく「フィクションは主張や嘘と区別される」というフィクションの哲学では一般的な見解から生じている*4。主張や嘘の場合、話し手は聞き手に何らかの命題が事実であると信じさせそうとしているが、フィクションの場合はそうではない。フィクションの哲学において、作者は読者に何かを信じさせようとしているのではなく、書かれた内容を想像するよう指示しているのだと考えられている。ただ、そうすると作者がフィクションを通じて何らかの知識を教えようとしていたり、内容の一部が事実を描いていると受け取られるケースを説明できない*5。そのため、なんらかの説明が必要だという話になる(たぶん)。
ただ、今回の2人の発表は焦点がそれとも少し異なっていて、おそらく徐さんが問題にしているのは、作者が実際に主張しているかにかかわらず受け手がそう判断することがあるが、その判断はどのようにして下されるかだと思う。それで、松本さんが問題にしているのは、もっと別の話で、話者がその発話の命題内容が事実であることにコミットしていないとみなされる状況を「誤報免疫」と呼び、誤報免疫の制御がフィクションのある芸術的達成にいかに関わってくるのかを論じている。
あと、これは完全に余談になってしまうが、この種の問題は結構ケースごとに事情が変わってくるので、どこまでひとまとめに論じられるのかは先に考えたほうがいいと思う。例えば、小説で地の文のレベルで主張が行われるケースと物語内部の登場人物が主張を行なっている(ように見える)ケースを同じように扱っていいのか、学習マンガやポスターなどフィクション外の用途*6があるケースとそうでないケース(普通のフィクション作品)を同じように扱っていいのかなど。
*1:美学会からもう半年以上経っていない?
*2:あくまで僕はこう整理していますくらいの話。
*3:どっちも一緒じゃんと思うかもしれないが、別に作者が主張を意図しようと意図しまいとフィクションにより受け手の信念が変化し得ることを考えれば両者は区別するべきだろう。
*4:ここら辺は徐さんや松本さんがまとめているので、詳しくはそちらを参照してください。
*5:個人的にこの種の反例で一番わかりやすいのは学習マンガだと思う。例えば、ドラえもんがのび太に数学を教える学習マンガがあったとして、この作者はこの漫画を通じて読者に数学の知識を教えようとしているとはず。
*6:例えば、学習マンガは読者に知識を伝えるために書かれていて、受け手はその用途を普通は認識しているだろう。
『物語のディスクール』IV「叙法」前半(p. 187 - 217)メモ
〈ゲームの哲学〉研究会用に用意したメモですが、読書会に間に合わなかったので、ここに供養します。なお、僕は文学研究の専門家ではないので、特に後半の要約の正確さは保証できません。あくまで僕が解釈するとこうなったというだけです。今後もメモを供養するかどうかは知りません。
続きを読む「Computer Game as Narrative」_メモ
はじめに
講演会で「ナラトロジストの人は具体的に何を物語と呼んでいたのですか」についてちゃんと答えられなかったので、勉強も兼ねて『Avatars Of Story』8章を読み直しました*1。まとめると、おおよそ「虚構世界+人間(likeなもの)が出来事を起こす」がライアンのいう物語の基準と言っていいと思います*2。
ライアンを紹介したい理由は他にもあって、ルドロジー vs ナラトロジー論争において、ルドロジストの主張を検証してまともな反論をしている数少ない論者であるからだ。ルドロジストの主張の理解が間違っている*3など色々注意して読むべき部分はあるが、ライアンの議論やライアンが提示した論点はそれなりに検討に値するものがあると思う。少なくとも、ルドロジストも今見るとそれなりに脇の甘い議論をしていることがわかるはずだ。
(追記:2026年1月4日)
ここでライアンの議論の整理と私見について簡単に述べようと思う。ライアンの議論は「ナラトロジストは物語を定義していない」というルドロジストの批判に応えたものであると言える。ライアンは物語を「受け手の心にストーリーを喚起する意図をもって制作された記号論的物体」(Ryan 2006, 11–12)と定義している。要は、その物体がストーリーを伝えるために作られたのならば、それが何であれ(小説、映画、演劇、漫画etc...)物語であるということだと思われる*4。ライアンは、ルドロジスト(というかエスケリネン)の定義についても批判を行っている。ライアンが言わんとすることは、ルドロジストはゲームが物語に含まれないように定義を恣意的に選んでいて、昨今の物語論(正確には認知物語論)における定義論を踏まえるのであれば、むしろ一部のゲームは物語であることを認めるべきだということだろう。この批判が的を得ているのかはともかく、「物語をどう定義するべきか」というより生産的な問いを提示しているのは良い点だと思う。
気になっている点についても指摘する。記事を読んでもらえればわかるのだが、ライアンは物語と物語性を混同して論じているように見える。物語性(narrativity)とは、あるものが物語であるかそうでないかを区別する性質全般を指す用語だが、ここでは受け手がある出来事をストーリーとして理解するかどうかを指す用語として使われているように見える 。ライアン自身が指摘しているように、この意味での物語性で問題になっているのは、受け手がそれをどう受け取るかであり、作者が何を意図してそれをデザインしたかは問題にしていない(Ryan 2006, chap. 1)。「あるものが物語である」と「あるものに物語性がある」は本来区別して論じるべきことであるはずだ。ルドロジストは物語性については特に言及していないので、少なくとも、ゲームの物語性を議論に混ぜるのはルドロジストの応答としては不適切だと思う。
(追記終わり)
*1:ヘンリー・ジェンキンスの論文はすでにいろんな人が翻訳しているのと、昔僕が作った全訳が消失して(萎えた)ので、なしでお願いします。
*2:同じ話はすでに別の記事でもやっていた(https://kusoani-ken.hatenablog.com/entry/2025/04/07/013731)。
*3:とはいえ、それだけルドロジストの主張は誤解されやすかったということなのかもしれないが。注(Ryan 2006, chap. 8, n. 14)を確認するにライアンはフラスカらの訂正を読んだ上でこれらの反論を展開している。
*4:詳細は過去記事参照(https://kusoani-ken.hatenablog.com/entry/2025/04/07/013731)。
美学会_感想1
全体的な話
今回は一般枠で発表させていただいたが、前回(2年前)と比較するとものすごく話やすくなっていて、雰囲気の変化を感じた。なんと言ったって、今年は分析美学の枠が多い。一般枠で三つもある。しかも、そのうち一つはゲーム専用枠。本当この一年で何があったんだ?
自分は不勉強なので分析系の議論しかわからない美学者としてはダメダメ人間だけど、今回はわかる話が多くて楽しかった。そんなわけもあって、コメント残しておきたい発表がたくさんあるので、今回は小分けで出そうかと思います(具体的にはフィクションの哲学と若手のゲーム研究の発表は次回...*1)。
*1:と思って書いてみたけど分量大してないので一個にまとめて良かったかも。でも、たぶん次回は長くなります。
「プレイヤーの動機はプレイヤーキャラクターに反映されるのか」反省会
発表スライド(画像を一部修正*1):
https://drive.google.com/file/d/1dOYY2v0RFU5gqJ7nIj4q-hHEDIqnii0n/view?usp=sharing
発表原稿:
https://drive.google.com/file/d/12TH_JtL4asMt7pgZO3lVpp4LuaSCs91w/view?usp=sharing
*1:学会発表ではゲーム画面を引用したが、ここはブログなので手書きの画像に置き換えました。絵が下手なのは許して。