フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

「没入のための制度としてのフィクション」感想

 先日開催されたワークショプ「フィクションの中へー没入の美学*1」の岡田さんの発表についての感想。

 大雑把に内容を説明すると、フィクションを鑑賞時に生じる情動について何らかの規範(「このシーンではこう感じるべき」)があるが、その規範がどのようにして決定されるのかという話。詳細は本人のresearchmap*2にあるのでそこから確認してほしい。

 僕も(一応)フィクションの哲学の研究者だが*3、自分とはかなり違う論点を扱っていて面白いと思った。全体的な論の運びもわかりやすいし、芸術的デバイス(?)が現実にも用いられている話やフィクション鑑賞の在り方には様々な要素が関係している話は「確かに」と思った。

 ただ、発表について引っ掛かる点があったのだが、うまい具合に整理できずその場で聞くことができなかった。それで頭の中に残った疑問点をそのまま残しておくと気持ち悪いので、ここに記しておく*4

 

気になったところの話

 気になった点は次の2点。

「情動の規範」がよくわかない

 これに関しては、会場からも質問があったと思う。情動の規範について例示はされていたものの、僕個人はその直感を共有することができなかった*5

 岡田さんが「規範」で言わんとしていることは次のようなことだと思う*6。私たちはフィクションを鑑賞する際に湧き起こる情動について、「こう感じるべき」ないし「こう感じるのが正しい」といえるものがある。例えば、悲劇的なシーン(発表では『タイタニック』のラスト(ローズが既に凍死したジャックを海に葬るシーン)が挙げられていた)で私たちは悲しむべき、あるいは悲しむのが適切な反応である。

 それで、僕が疑問に思ったのは、ここで問われている規範や正しさがこの説明だとまだはっきりしていないのではということだ。

 例えば『タイタニック』のラストシーンで隣の人が大爆笑するとおそらく僕はムッとするが、そのシーンをおかしく思うことについて規範や正しさを問えるのかというと怪しい気がする。隣の人にムッとしたのはその人の笑いが僕の鑑賞の邪魔になったからで、そのシーンをおかしく思うべきではないとかそれが間違った反応だからではない*7。その人が笑っていることに対して「変だ」と感じるかもしれないが、それはその人が笑う理由がわからないからであり、理由を聞けば(同感するかはさておき)納得するだろう*8*9。ただ、その一方で、『タイタニック』のラストは悲しいシーンであるし、それは隣で笑っている人も同意することだろう。

 少々とっ散らかってしまったが、具体例から情動の規範ないし正しさと呼べそうなものは次のように分類できるように思われる。

 

  1. ある情動を表に出すことについての規範(悲しいシーンで笑いを表に出すべきではない(堪えろ))。
  2. ある情動が喚起される(ある情動を心に抱く)ことについての規範(悲しいシーンをおかしく感じるべきではない)。
  3. フィクションが喚起しようとしている情動についての規範(あのシーンは悲しいシーンであると解釈するべきだ)。

 

 それで問題は発表ではどれの話をしているのかだが、少なくとも①ではないと思う。①は実際に規範が問える話だと思うが、この種の規範はフィクションの鑑賞外からもたらされるものだと思う(1人で鑑賞しているなら情動を表に出しても問題ないはず)。個人的には②の話をしているように思えるが*10、②について規範ないし適切さを問えるかというと難しい気がする。「普通はこう感じる」「こう感じるのが自然だ」とは言えるかもしれない。③の話をしている可能性は十分ありうるが、この場合情動についての規範というよりは、作者の意図や作品の解釈に関する規範(正しさ)ということになりそうな気がする。

行われている議論が実質的に「フィクションが喚起する情動はどのようにして決定されるのか」について議論しているように見える。

 たぶん1つ目と関連する話題。先行論者がどのように議論しているか僕は知らないが*11、基準的特質や芸術デバイスなどの理論で実際に説明されているのは、情動が喚起される要因であるように見えてしまった。

 少なくともここで規範を決定するものとして提示されているものは、情動を喚起する要因の説明にも使えると思う。ただ、情動を喚起する要因の全てが規範の決定にも関わってくるかというと違うと思う。作品の粗や矛盾などは笑いや困惑などの情動を引き起こすかもしれないが、(粗や矛盾が意図されたものでない限り)その情動は適切な情動ではないだろう。作品の様々な要素が様々な情動を喚起する(しうる)が、その中で適切な情動を決定するのは一部であるという話なのかもしれない*12

参考文献

・岡田進之介(2023)「悲劇でなぜ悲しむべきなのか」第74回美学会全国大会一般発表

・岡田進之介(2024)「没入のための制度としてのフィクション」フィクションの中へ―没入の美学WS、https://researchmap.jp/shinokada/presentations/45570521

 

 

*1:https://fiction-4.jimdosite.com/

*2:https://researchmap.jp/shinokada/presentations/45570521

*3:僕の場合は、特定のジャンル(ビデオゲームなど)の実践を説明するためにフィクションの哲学の理論を使っているだけので、フィクションの哲学の研究者と言っていいのかちょっと怪しいかも…。なんか他の哲学者のツイートを見ていると、彼らとは哲学を研究する動機が違う感じもするし。

*4:勢いだけでずっと書き続けてもう眠たい(朝9時)ので、わけわからん文章になっているかも…。あんまり本人に読まれたくないかも…。

*5:岡田さんは以前美学会で同様の内容で発表を行なっているが、その時の発表資料を見ると情動の規範について厚い記述がある(岡田 2023)。まとめると次のような感じ。①情動の規範で問題としているのは実際の鑑賞でなぜ・どのように、どの情動が喚起されるかではない。②情動の規範は、フィクション作品が要求する情動的反応についての規範(このような説明でいいのかはわからない…)であり、美的な規範(美的に正しい反応をすべき)倫理的な規範(倫理的に正しい反応をすべき)ではない。③情動の規範は、コミュニケーションにおける規範とは異なる(上司のつまらないジョークに対して笑うべきだ)。こうして見ると、岡田さんはどのような情動が喚起されるべきかではなく、どのような情動を表に出すべきかという話をしているようにも見える(たぶん違う)。

*6:あくまで「僕はこう理解しました」という話で、岡田さん本人がこのように説明したわけではない。

*7:悲しいシーンで笑うことについて「笑うべきではない」という規範は成立しうるが、それは「笑いを表に出すべきでない」という話であって、笑うという情動が起きることについて何か規範があるわけではないと思う(そのシーンをどう感じるかは自由)。

*8:その人は、他にも乗れそうな廃材があるにも関わらずジャックがなぜか他の廃材に乗ろうとしないことがおかしいと感じているかもしれない。

*9:他にも「このシーンで笑うなんてちゃんと見ていないんじゃないか」と思うかもしれないが、そこで問題となる規範は鑑賞の仕方(粗を積極的に探したり、悪意のある解釈をするべきでない)に関するものであり、その鑑賞で情動が喚起されることについての規範ではない。

*10:発表での説明を文字通り解釈すると②になると思う。

*11:おそらく情動の規範に関する議論の文脈が既にあるのだと思われる。

*12:そもそも、何の情動も喚起しないが適切な情動に関わるものや、情動の喚起にも適切な情動にも関わるが、喚起される情動と適切な情動が全く違うものはあり得るのか。