1. はじめに
「ビデオゲームはインタラクティブなメディアなので、プレイヤーは自分自身の手で独自の物語を作ることができる *1」
こうは言われていないかもしれないが、似たような話はよく言われていることだと思う。ビデオゲームにおいてプレイヤーはキャラクターを操作することで、その虚構世界で起きる出来事に介入することができる。したがって、ビデオゲームの虚構世界は個々のゲームプレイごとに異なることになる
これは一見すると当たり前のように思われる。しかし、プレイヤーが実際にビデオゲームのフィクションとして理解しているものは、いうほどプレイングごとに異なっているわけではないように思われる。例えば『ポケットモンスター ルビー・サファイア』をプレイした人に「ルビサファのストーリーを教えて?」と聞くとだいたい同じ答えが返ってくるだろう。もちろんこうしたストーリーにおいてもプレイヤーの選択によって変化する部分(主人公の性別、捕まえたポケモンなど)は多々あるだろう。ただ、そうした部分を除けば、その作品のフィクションとして理解されているものは、かなりの部分共通していることが多いように思われる*2 。
このようにプレイヤーの解釈の実践を考えると、ビデオゲームのフィクションはある意味2つあるように思われる *3。
①ゲームプレイごとに異なるフィクション
②ゲームプレイ間で共通しているフィクション
以上のことを当の論者たちが実際に考えているかどうかは正直わからないけど、ビデオゲーム研究ではフィクションを何らかの点で2つに分割して理解する議論がちょくちょく見られる*4 。この種の考え方は自分の研究と通じる部分も多い一方で違う部分も多いので、そこらへんも含めて議論の始まりと思われる部分から時系列順にまとめていこうと思う。
ただ、今回は本題には入らないし、『ビデオゲームの美学』と内容ほぼ一緒なので読み飛ばしてもいいかもしれない...*5 。
2. 「作品世界」(work world)と「ごっこ世界*6」(game world) _グラント・タヴィナー(2005)
おそらくこの一連の議論はグラント・タヴィナー(2005)から始まっていると思う。タヴィナーは、ビデオゲームなどインタラクティブなフィクションの特徴を、ケンダル・ウォルトン(1990)の作品世界 / ごっこ世界の区別を用いて説明している。
作品世界(work world):その作品のみによって生成される虚構的真理の集合。
ごっこ世界(game world):その作品を使って行われる個々のごっこ遊びにおいて想像される虚構的真理の集合。
- ウォルトンの理論では、フィクションはごっこ遊び(make-believe game)の小道具(prop)の機能を備えた物体とされている。
- 小道具は鑑賞者=ごっこ遊びの参加者に特定の命題(虚構的真理)を想像するように指定する(prescribe)。
- ごっこ世界には鑑賞者自身についての虚構的真理も含まれる。例えば、ある絵画に描かれた対象を鑑賞者が見ていることは、そのごっこ世界において虚構的に真である。
- ごっこ遊びには、公認の(authorized)ものとそうでないものがある*7。作品世界はどの公認のごっこ遊びにおいても虚構的に真である命題の集合である*8。
タヴィナーは、インタラクティブなフィクションではごっこ世界が実際に作品世界に「投影」されるため、作品世界とごっこ世界の区別が曖昧になると主張している。
おそらくタヴィナーの論理は以下のようなものであると思われる*9。
①インタラクティブなフィクションでは、プレイヤーが作品の例化に関わり、作品世界の虚構的真理の生成に貢献する。
②この時、ごっこ世界でプレイヤーが行った虚構的行為(「プレイヤーはキノコを取った」)が作品世界に影響を与える(「マリオが巨大化した」)*10 。
③②によりごっこ世界が作品世界に投影され、両者の区別が曖昧になる。
3. 作品と事例の区別_アーロン・メスキンとジョン・ロブソン(2012)
アーロン・メスキンとジョン・ロブソン(2012)は、タヴィナーの「作品世界とごっこ世界の区別が曖昧になる」という主張を否定している。
メスキンとロブソンは、ゲームプレイごとに作品世界が異なることを、演劇における戯曲と上演の関係をビデオゲームに類比的に適用することで説明できると論じている。演劇において、戯曲(作品)とその上演(事例)はそれぞれ異なる作品世界を持っている。上演において作品世界は、元となる戯曲だけでなく俳優の行動や見た目によっても決定される*11。そのため、同じ戯曲を元にした上演でも、上演ごとに作品世界は異なるものとなる。ビデオゲームにおいても、作品自体の作品世界とは別に個々のゲームプレイ(事例)も独自の作品世界を持っていると考えられる。
そして、ゲームプレイ(事例)において、作品世界とごっこ世界は明確に区別される。例えば、3Dゲームでプレイヤーがプレイヤーキャラクターを見ていることはごっこ世界でのみ虚構的に真になるだろう。あるいは、『ディスガイア3』などのストラテジーゲームで、プレイヤーは部隊を指揮することを想像しないことは難しいが、作品世界に実際に部隊を指揮するキャラクターがいないことがある。プレイヤーが部隊を指揮することはゲーム世界で虚構的に真であるが、作品世界でキャラクターが指揮することは虚構的に真ではない*12。
3. 複数芸術と作品の例化について
ここで、この後の話のために複数芸術や作品の例化についてまとめる。以下の内容は主にステファン・ディビス(2005)を参考にしている。
単数芸術と複数芸術
単数作品(singular works):作品の事例が1つのみ(しかありえない)作品
例:油絵、彫像など
複数作品(multiple works):作品の事例が複数ある(ありうる)作品
例:木版画、ネガから作られた写真、小説、映画、戯曲、音楽など
- 単数作品であってもオリジナルと区別のつかないような複製(copy)を作ることは可能かもしれないが、複製は作品の事例にはカウントされない。
事例と複製の違い
事例*13:「私たちが芸術作品を経験する際に接触する全ての具体的な物体」(Currie 1989, 5)
- 事例と複製はその制作者の意図に違いがある可能性が高い。
- ある作品が単数か複数かは、意図だけでなく社会的取り決めや慣習にも依存している。
複数芸術の分類
複数作品の創作・伝達方法は3つに分けられる。
1. 模範(exemplar)となる事例の創作
例えば、小説家が制作する原稿は、小説の事例の1つであると同時に、他の事例が模倣しなければならない基準を定める機能を持ったモデルでもある。ただ、このモデルの持つ性質の全てが模範となるわけではない。何がその作品の同一性に重要かはジャンルや慣習、歴史が関わってくる。
2. エンコーディング・デコーディング
例えば、オーディオテープや、CD、写真のネガ、コンピューターのファイルなどは、それ単体で作品を経験することができない。これらの作品は適切な出力装置を通して初めて例化することができる*14。このような機械的な手続きにより例化される作品を「エンコーディング(encording)」、例化する手続きを「デコーディング(decording)」と呼ぶことにする。デコーディングは機械によって行われることが多いが、鋳型から像を鋳造することや銅版画から版画を制作することなど熟練工が関わるケースもある。
3. 上演芸術
上演者や演奏者宛てに事例を生成するための一連の指示を作成することで、芸術作品を創作・伝搬させる方法がある。楽譜によって指定される音楽作品や台本によって指定される演劇はこのカテゴリーに含まれる。
上演された実例(音楽の演奏、劇の上演など)はその実例を指示する作品(楽譜、台本など)より多くの内容を持つことが多い。例えば、台本には小道具やセット、衣装の詳細の多くについて指定がない。しかし、それは指示する作品が不完全である(incomplete)であるということではなく、決定されていない部分について上演者に解釈の自由が委ねられているということである。したがって、作品に忠実な(faithful)上演であっても、その事例は多様化する可能性がある。
上演のための作品とそうでない作品の違い
- 上演のための作品の事例には持続時間(durations)が必要であるが、そうでない作品の事例には必要ない。上演は連続する実時間の中で起きる出来事群であり、その一塊の時間の持続(分離)が上演する作品の同一性を規定する。小説はこの点で上演とは区別される。小説を読むのに時間が必要ではあるが、小説を読む時間は小説の同一性に中心的な役割を果たさない。
- 上記の指摘では、CDなどのデコーディングが上演と見なされないことを説明できない。上演とデコーディングの違いは、上演は必然的に解釈を通じて提示されるのに対し、デコーディングは解釈を伴わないことだろう。
4. で、ビデオゲームは上演芸術なの?
ビデオゲームは機械によって自動的に例化される側面もあるが、一方で、プレイヤーとのインタラクションが例化にとって重要な役割を果たす側面もある。この場合、ビデオゲームは上演芸術になるのか、それともエンコーディング / デコーディングの一種になるのか。
松永伸司(2018, 48–50)は、以下のように芸術作品を分類した上で、ビデオゲームは上演芸術と再生芸術の両方の側面を持つとしている。
単数芸術:事例が1つ(しかありえない)
複数芸術:事例が複数(ありえる)
<物体芸術:事例が物体
出来事芸術:事例が出来事
<再生芸術:作品の例化を機械が自動的に行う
上演芸術:作品の例化を人間が非自動的に行う>>
ビデオゲームの例化におけるプレイヤーの役割については先行研究があるみたいだけど、長くなるのでまたの機会に。
続く...
参考文献
・Currie, Gregory. 1989. An Ontology of Art. 1st ed. Basingstoke, England: Palgrave Macmillan.
・Davies, Stephen. 2005. “Ontology of Art.” In The Oxford Handbook of Aesthetics. edited by Jerrold Levinson, 155-180. Oxford: Oxford University Press.
・松永伸司(2018)『ビデオゲームの美学』慶應義塾大学出版会
・Meskin, Aaron, and Jon Robson. 2012. “Fiction and Fictional Worlds in Videogames.” In The Philosophy of Computer Games, 201–17. Dordrecht: Springer Netherlands.
・Tavinor, Grant. 2005. “Videogames and Interactive Fiction.” Philosophy and Literature 29 (1): 24–40. https://doi.org/10.1353/phl.2005.0015.
・Tavinor, Grant. 2009. The Art of Videogames. Chichester, England: Wiley-Blackwell.
変更点
- 記事のタイトル変更(2023/09/27)
*1:これは文献の引用とかではなく、僕が適当に書いた。
*2:あるいは、制作者が書いた(であろう)筋書きをプレイヤーは読み取り、それを作品が提示するストーリーとして理解しているということなのかもしれない。
*3:①②をこう説明していいのかは微妙。
*4:おそらく、彼らの言いたいことをプレイヤーの解釈の実践に近づけて説明するならこんな感じになると思う。ただ、彼らはそのようには自分の研究を説明していないし、実際にそう考えているかは本人に聞いてみないとわからない。
*5:具体的には、pp. 48–50とpp. 274–276の部分
*6:原語は“game world”だが、これをそのまま「ゲーム世界」と訳すと「ビデオゲームの表す虚構世界」という意味だと誤解されかねないので、「ごっこ世界」と訳す。
*7:公認のごっこ遊びとは小道具が指定する命題を想像するごっこ遊びであると言えると思う。逆に非公認のごっこ遊びは指定されていない命題を想像するごっこ遊びということになる。ウォルトンは非公認の例として、『グランド・ジャット島の日曜日の午後』を使ってカバが泥穴で転げ回る想像をするごっこ遊びを挙げている(Walton 1990, 60)。(『グランド・ジャット島』を見ればわかるが、その絵の中に泥穴で転げ回るカバは出てこない。)
*8:雑に言い換えれば、全ての公認のごっこ世界の共通集合が作品世界ということになる。ここで公認のごっこ世界と作品世界の差分となっているのは、おおよそ鑑賞者に関わる虚構的真理だと思う。
*9:タヴィナー(2009)も参考にした。ここら辺の理屈は正直あんまりわからなかった。
*10:タヴィナー(2009, 58)の説明を読むにこのようなことをタヴィなーは主張しているように思われる。いわゆる虚構的行為が本当にごっこ世界に属すかは謎。
*11:もちろん、舞台セットや俳優が与える情報のすべてがその上演の作品世界の内容になるわけではないだろう。上演の作品世界の家は手前に壁がない特殊な作りになっているわけではないだろうし、昔の時代が舞台の演劇で俳優が現代の装いをしていても、登場人物がそのような服装をしていることにはならないだろう。
*12:もちろん、プレイヤーが部隊を指揮することは作品世界で虚構的に真ではない。
*13:本文中に事例の説明が(ざっと読んだところ)見当たらなかったので、他の文献から引っ張ってきた。
*14:例化(instantiation)」とは、作品から事例を生成する手続きのこと。