フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

「Beyond Myth and Metaphor -The Case of Narrative in Digital Media」 メモ

 マリー=ロール・ライアン*1が書いたデジタルメディアの物語についての論文。実はユールの「Games Telling stories?」*2と同年代(というか同じジャーナル)に出ている。とはいえ、ライアンの立場(関心)はユールとはだいぶ異なるし、アプローチも全然違う*3

 ライアンはこの論文で、デジタルメディアが語る物語全体の可能性について論じていて、ビデオゲームはあくまでその一種類という位置付けになっている。ライアンは(当時の)デジタルメディアに対する神話(期待のようなもの)を取り上げ、検証している(そして、神話は否定されたり、単純に当てはまるわけではないことが示される)。最後に、ライアンはデジタルテキスト(とりわけビデオゲーム)の物語性とは何か(あるいは、どのようにビデオゲーム物語性を擁護できるのか)を論じて締め括られている。

 

以下、詳細。

 


0. はじめに

  • 近年、物語概念をコンピューターやインターフェースに比喩的に用いることが流行っている。

  • しかし、ソフトウェア設計において、物語概念の適用は大した結果を残していない(Microsoft OfficeのOfficeアシスタント(日本だと「お前を消す方法」で有名なあのイルカ)など*4)。

  • ソフトウェア開発者が物語の概念をプログラムに適用するのに対し、メディア理論家は、筆者が「物語の神話」と呼ぶものを提唱し、文学や娯楽としてのデジタルテキストを奨励(promote)している。
  • これらの神話は、デジタルテキストの理想的な表現を提示することで、大衆の想像を喚起するという有益な目的を果たすが、同時に、誤った期待も抱かせる。
  • 本稿では、これらの神話のうち二つ、アレフの神話とホロデッキの神話について論じる。

1. 物語(narrative)とは何か

  本題に入る前に、本稿での「物語(narrative)」について説明する*5

  • 物語性は、虚構性の問題とは無関係である*6

  • 物語性は、文学や小説と同一の外延を持つわけではない。

  • 物語性は、物語価値性(tellability)とは無関係である*7

  • 物語とは、シニフィアン(物語言説)とシニフィエ(物語内容、心象、意味表象)を持つ記号である。シニフィアンは複数の記号論的な顕現(manifestation)を持つ。例えば、それは、言葉によるストーリーテリング(ダイエジェティックな物語行為*8)や、俳優の身振りや台詞(ミメティックな、あるいは演劇的な物語行為)から構成される。

  • テキストの物語性はシニフィエのレベルに位置する。したがって、物語性は意味論の用語で定義されるべきだ。その定義はメディアから独立したものであるべきだ。

  • 物語性は程度の問題である。ポストモダン小説は、寓話やおとぎ話のような単純な形式よりも物語性が低く、大衆文学は通常、前衛的な小説よりも物語性が高い。

  • 物語表象は読者がテキストを元に構築するものである。全てのテキストが物語解釈に向いているわけではない。

  • 物語表象は時間軸上に位置づけられる世界(背景)と、その世界に住む、行動や偶発的事象(出来事、プロット)に関与し、変化をする人間(登場人物)から構成される。

  • 人生において、行為を行う理由で最も重要な(prominent)ものは、問題解決である。したがって、これは最も基本的な物語のパターンである*9
  • 物語の表象は、主題的に統一され、論理的に首尾一貫していなければならない。その要素は自由に入れ替えることはできない。なぜなら、それらは原因と結果の関係により正しい順序でまとめられ、時系列順に並ぶことに意味があるからである。物語の表象の命題は共通の指示対象(=登場人物)についてものでなければならない*10

2. ハイパーテキストアレフの神話

2.1 アレフの神話の由来

  • アレフの神話は、ホルヘ・ルイス・ボルヘスの短編小説に由来する。小説によると、アレフは小さな物体でありながら、歴史と現実の全体を細部まで見通す(contemplate)ことができ、経験者は生涯をその観察に投じることができるという*11
  • ランドウ、ボルター、ジョイスといった理論家にとって、ハイパーテキストとは、読解を通じて拡大し続けるテキスト体であり、読者は何時間も(理想的には生涯をかけて)そこから新しい物語を解き明かす。
  • ハイパーテキストの先駆者たちは、自分達の発明が、可能な物語の総体であり、意味が尽きることがない究極の文学作品であると、夢想していた。

2.2 アレフの神話の中身

  • ハイパーテキストを無限の物語を内包する母体とみなす考えは、特にジョージ・ランドウの研究で顕著である。彼は自身の著書『Hypertext 2.0』で「物語の再構築」について章を設けて論じている。。
  • 「物語」という言葉は「物語的言説」と「意味論的構造」の両方の意味を持つため、ランドウの主張(「物語の再構築」)は二通りの仕方で理解できる*12
  • 一つは、言説の意味での理解である。ハイパーテキストでは、テキストの動的な展開に応じて、物語言説が再構築される。この特徴はメディアのインタラクティブ性、あるいはエルゴード性によるものである。
  • しかし、これによって、従来の物語のパターンと根本的に異なる物語内容が提示されるわけではない。一つの固定された物語内容が多くの異なる経路で提示されているだけである。
  • もう一つは、意味論的構造の意味である。この解釈では、読者の手により、テキストの断片の中から新しい物語内容が構築されるため、テキストの横断は、意味論的な意味で、新しい物語内容を生み出す。

2.3 アレフの神話の実体

  • もし、データーベースを走査するたびに、異なる物語内容が決定されるのならば、読者はテキストの断片に遭遇する順序次第で異なる物語内容を構築することになる(ABCの順に遭遇した人の物語内容は、 BACの順に遭遇した人のものとは異なるはず。)。
  • しかし、個々の断片は論理的前提、物質的因果性、時間的順序などの関係によって、暗黙のうちに順序づけられている。テキストの断片の集合をどのように並び替えたとしても、そこから一貫した物語内容を構築できるというのは、単純に誤りである。
  • 例えば、「登場人物が死んだ」という断片の後に、「登場人物が生きている場面」が書かれた断片が来たら、どう解釈すべきなのか?

  • ジグソーパズルに近い。つまり、パズルを組み合わせて全体像を構築するように、ハイパーテキストにおいても、読者は一つの全体像を、テキストの断片が現れるたびに補完したり修正することで、作り上げていく。

3. VRの物語とホロデッキの神話

3.1 ホロデッキの神話の由来

  • 第二の神話のホロデッキは、仮想環境の物語ついてのモデルとして、ジャネット・マレーらの理論家によって提唱された。
  • ホロデッキの神話はテレビシリーズ『スタートレック』に由来している。ホロデッキは、宇宙船「エンタープライズ号」の乗組員が、気晴らしや娯楽のために逃げ込む一種のVR洞窟である。この洞窟の中で、コンピューターは虚構世界のシミュレーションを実行し、訪問者(「インタラクター」と呼ぶ*13)はデジタル小説の登場人物となる。この小説のプロットは、人間の参加者とコンピューターが作り出す架空の人物とのインタラクションを通じて、「リアルタイムで(live)」生成される。

3.2 ホロデッキに適したプロット

  • インタラクターは行為者であり、この点においてプロットの共同製作者である一方で、何よりもこの上演の受益者でもある。
  • したがって、体験の娯楽的価値はインタラクターが自身のアバターにどのように関わるかに依存する。つまり、インタラクターは俳優のように、自分のキャラクターから内面的に距離を起き、彼らの感情をシミュレートするのか、それもとも、一人称モードで自分のキャラクターを体験し、彼らの動機や感情を実際に感じるのか。
  • 文学の場合は一人称と三人称の妥協(compromise)が起きていると思われる*14。我々は登場人物の内面を頭の中でシミュレートし、想像の中で彼らの内面へと移動しつつも、同時に外部の観察者であるという意識を持ち続けている(だから、人は悲劇の登場人物に感情移入しつつも悲劇を喜ぶことができる)。
  • しかし、『スタートレック』のホロデッキの場合、インタラクターは一人称モードで感情を体験する。エンタープレイズの司令官キャスリン・ジェインウェイは、コンピューターが生み出したキャラクターのバリー卿と恋に落ちるが、この恋が原因で任務が果たせなくなり、最終的に彼女は恋人を削除してしまう。

  • 精神のシミュレーションによる共感を、純粋な一人称の感情に変える試みは、ほとんどの場合、喜びと苦痛を分けるもろい境界線に踏み込むことになる。
  • このことが意味するのは、一人称視点に向いているのは、特定の種類の感情体験、特定の種類のプロットだけであるということだ。キャラクターでいうならそれはおそらく、フラットなキャラクターだろう
    *15。このキャラクターはプロットに感情的に関わらずに、世界を探検したり、問題を解決したりするなど、具体的な環境の中で関心のある対象ある対象を扱うことでプロットに関わる。

  • この種の関わり方は、小説や演劇の受容よりも、コンピューターゲームのプレイにずっと近い。

3.3 デジタルメディアの分類

  • ジャネット・マレーは『ホロデッキハムレット』の最後で、「物語の美しさは媒体から独立している」(273)と記述している。この発言は二通りの解釈が可能で、ひとつ真でもうひとつは偽である。

  • 偽である解釈は、物語性はメディアから独立した心的表象であるという解釈である。この解釈は個々のメディアの独自性を無視するだけでなく、デジタル技術が物語性を高める新たな次元を加えるに違いないと早合点している*16

  • 筆者が支持する解釈は、個々のメディアは異なる表現資源を持っているため、物語の具体的な顕現(manifestation)はメディアによって異なる、というものである*17。要は、あるプロットを表象するのに最適なメディアはプロットごとに異なる。

  • したがって、問題はどのタイプのストーリーがデジタルメディアに適しているのかということである。

  • この問いに対する答えは、デジタルメディアの最も特徴的な資源を構成する「変化する状態に応答する能力」に決定的に依存している。状態の変化がユーザーの入力によって決定される場合、我々はこの資源をインタラクティブ性と呼ぶ。

  • この議論の目的のために、「内的/外的」と「探索的/存在論的」の二つのペアに基づいて、4つのインタラクティブ性の形態を区別する。(この二つのペアはエスペン・オーセトのサイバーテキストにおける機能と視点の類型論(Cybertext, 62-65)を翻案したものである) *18

内的/外的インタラクティブ
  • 内的方式では、ユーザーは、アバターと自分を同一視するか、一人称視点で仮想世界を把握することで、自分自身を虚構世界の一員として投影する。
  • 外的方式では、読者は自身を仮想世界の外部に位置づける。読者は虚構世界を上から制御する神の役割を果たすか、自身の活動をデーターベースの航行として概念化する。
  • 世界に内的に参加することは論理的にユーザーの擬人化をもたらすが、外的な参加は具体的な人格を必要としない。
探索的/存在論インタラクティブ
  • 探索方式では、ユーザーはデータベースの中を自由に動き回ることができるが、これによって仮想世界の歴史やプロットが変化することはない。
  • 存在論的方式では、ユーザーの決定が、仮想世界の歴史をさまざまな分岐路に向かわせる。これらの決定は、どの可能世界が展開するのか、そしてどのストーリーが展開するかを決定すると言う意味で、存在論的である。

4.  インタラクティブ性のタイプごとの分析(3.3 の続き)

 以上の2つの二分法を組み合わされると、インタラクティブ性は4通りに分類できる。

グループ1:外的-探索的インタラクティブ性 

  • このグループには「古典的な」ハイパーテキストが属する。

  • 読者はテキスト空間(テキストの断片のネットワーク)を横断する経路を自由に選択できる。
  • しかし、自由に選択できるがゆえに、読者が通る経路にはランダム生が生じる。
  • ランダム性は物語の論理構造とは相容れない。それぞれの経路に対し物語の一貫性を保つのは不可能である。
  • このような条件下で物語の一貫性を保つためには、テキストの断片をパズルのピースとみなし、読者が個々の断片から元のストーリーを組み立てるしかない。

  • この種のインタラクティブ性は、読者を虚構世界の一員として位置付けないため、外的である。また、テキストの横断が全体像の形成のされ方のみに影響を与えるため、インタラクティブ性は探索的なものとなる。

  • さらに、ジグソーパズルではイメージよりもその構築過程が重視されるように、外部/探索的インタラクティブ性も物語そのものより、その発見のゲームの方が重視される。したがって、外部/探索的方式は、自己言及的なフィクションの方が適している。

グループ2:内的-探索的インタラクティブ性 

  • このカテゴリーのテキストでは、ベンダ・ローレルの(1993:14)の言葉を借りれば、ユーザーは仮想の体を虚構世界に連れていくが、この世界でのユーザーの役割は物語の出来事と関係のない行動に制限されている*19
  • しかし、ユーザーの役割が受動的な役割に限定されているわけではない。
  • ユーザは虚構世界を探索して、はるか昔の出来事を再現することで、自分の主体性を発揮する。このようなインタラクティブ性に適したプロットはいくつか存在する。

  • ミステリー系のストーリー*20:ここでは、探偵の行動により構成されるレベルと、再構築される物語内容のレベルの、二つの物語のレベルが接続されている。後者のレベルはあらかじめ決定されているのに対し、前者のレベルはユーザーによってリアルタイムで作り出される。

  • 並列的プロット、あるいはソープオペラタイプ:異なる場所で並行して進行する複数のプロットを見るために、ユーザーは場所を変える必要がある。

  • 人間関係に焦点を当てた物語:登場人物の視点を切り替えて楽しむことができる。

  • 空間的物語:ここでの主題は旅行や探検である。これは電子版の『不思議の国のアリス』で、『不思議の国のアリス』ではアリスは実際に何かをするわけでなく、他の登場人物の生活に迷い込み、彼らをしばく観察する。

  • 場所の物語:ここでは空間を旅するのではなく、特定の場所を深く探索することに重点が置かれている。この種の作品では、物語の面白さは、包括的なプロット、つまりマクロレベルの「壮大な物語」ではなく、ユーザーが虚構世界の隅々で発見する「小さな物語」に宿る。

グループ3:外的-存在論インタラクティブ性 

  • ここではユーザーはシステムの全能の神のようなものである。ユーザーは、虚構世界の外部から、登場人物(の行動・性格)や彼らを取り巻く環境を操ることで、彼らの運命を決定する。その点においてユーザーはプロットの共同制作者でもある。

  • 物語システムの操縦者は、虚構世界の外部にいるため、その仮想の歴史の分岐よりも、その可能性の領域全体に関心がある。

  • 真に複雑な相互関係のシステムでは、物語の一貫性を保つのは不可能である。そのため、外的-存在論的方式では、物語の構造を分岐が少ない単純なものにし、すべての経路を作者が個別に設計できるようにする必要がある。
  • 外的-存在論インタラクティブ性のもう一つの例は、『Simscity』『Simlife』『Caesar』などのシミュレーションゲームである。これらのゲームでは、ユーザーは都市、コロニー、帝国などの複雑なシステムを支配し、ユーザーの決定はシステムの展開に影響を与える。
  • シミュレーションゲームでは、可能な出来事の展開が広い意味での物語となる。つまり、シミュレーションゲームの物語は人間関係ではなく、ミクロな環境に影響を与える変化の連続からなる。
  • シミュレーションゲームでは実際は1人の「登場人物」しか存在せず、この人物は自我を持たない。それは、多数のミクロプロセスの総和に過ぎない*21。しかも、どの時点においても可能な展開の範囲は虚構世界の現在の状態のみに依存する。したがって、システムが物語の一貫性を損なわないように、選択肢の一覧を算出することは容易である。
  • シミュレーションの操作には神の立ち位置が必要だが、上記のようなゲームの多くは、ユーザーを虚構世界の一員にすることで、ドラマチックな面白さを高めようとしている(『Ceasar』ではローマ帝国の統治者、『Simcity」では市長)。彼らは、市民と同じ空間と時間に存在しないため、外的なインタラクターである。
  • しかし、彼らの運命は統治次第であるため、彼らは内的な参加者でもある*22。市長は住民の意に沿わなければ落選するし、シーザーは蛮族に侵略されれば失脚する。このように、シミュレーションゲームはグループ3と4の中間に位置する。

グループ4:内的-存在論インタラクティブ性 

  • ホロデッキが完全に実装されれば、ここに属することになる。)

  • このカテゴリーを代表するのは、アクションやアドベンチャータイプのコンピューターゲームだろう。

  • ここでは、ユーザーは虚構世界の中で行動して、自らの運命を決定する登場人物として位置付けられる。ユーザーと虚構世界のインタラクションは、システムを実行するたびに、新しい人生、ひいては新しい人生の物語(life-story)を生み出す*23

  • ゲームのプレイヤーは通常、目標の追求に没頭しているため、自身の行動により生み出されるプロットを思い返すことはできないが、人々が自分のプレイについて語るとき、その報告はストーリーの形式をとる。

  • 多くの人は当然、自分はストーリーとして読める「痕跡」を作るためにプレイしているのではない、と言うだろう。しかし、物語性がゲームの楽しさに全く関係がないのであれば、なぜ設計者はゲームに物語概念を適用するのか、ゲームの課題を物語の中に位置付けようとするのか。

  • アクションゲームの物語性はケンダル・ウォルトンがいうところの「メイク・ビリーブゲームのプロップ(小道具)」として機能している*24*25。物語性はゲームの存在理由ではないかもしれないが、物語性は想像力を刺激するための重要な役割を果たしている。

  • 最近のゲームでは、ゲーム世界にプレイヤーを没入させるために、カットシーンを用いるものもある。しかし、物語の枠組みを確立するのにユーザーの制御を一時的に奪う必要があるという事実は、インタラクティヴ性は物語の創造を促進していないという主張にさらなる根拠を与えることになる*26

  • 現時点では、内的-存在論インタラクティブ性の主題や構造のレパートリーは非常に限られている。アドベンチャーゲームロールプレイングゲームは、ジョセフ・キャンベルやウラジーミル・プロップによって示された原型的なプロットを実装している。つまり、危険に満ちた土地で、主人公が悪の力を倒し、望ましい目的を勝ち取るプロットである。また、ほとんどのアクションゲームでは、この原型は戦争、スポーツ、神話(善と悪の戦い)に絞られる。

  • プロップのロシア童話集がそうであったように、個々のゲームは、原型的な構造を肉付けする具体的なモチーフによって互いに異なる。視覚的要素の強いメディアでは、最も豊富なバリエーションを物語の要素は舞台(設定)である。

  • アクションゲームが地形の中を通り抜けるスリルに重点を置いているのはこのためである。しかし、空間の主題の重要性を説明する要因はもう一つあり、それはなぜコンピューターゲームで射撃がこれほど重要な役割を果たすのかも説明する*27

  • アクションゲームがプレイに値するためには、アクションする機会が頻繁に起きなくてはならず、そうでないとユーザーは退屈してしまうだろう。しかも、プレイヤーは自分の行動に即座に結果が返ってくることを求めている。

  • 移動の場合は、可能性は方向に対応し、地形構造により制限される。プレイヤーが方向を選択すると、即座にアバターが動き出すのが見え、これによってプレイヤーは高度な操作感を得られる。射撃は、引き金を引くと即座に劇的な結果が得られるので、さらに大きな力を感じることができる。

  • コンピューターゲームにおける暴力の優位性は、文化的な要因が大きいとされてきたが、私は部分的には即応性に対する欲求に取り説明されると考えている。しかも、引き金を引く動作は、ボタンをカチッと押す動作で再現することができる。これほどうまくシミュレートできる行動は他にはないだろう。

  • コンピューターゲームの暴力性を擁護するつもりはないが、射撃という主題は、このメディアの反応性を恐ろしいほど効率的に活用しているように思われる。

4. 結論

  • 結局のところ、デジタルテキストはどのようにして物語性に関与するのか。この問いは、ジャンル(ハイパーテキストVR環境、コンピューターゲーム)ごとに分けて考えるべき。

  • ハイパーテキストは、紙の小説や短編小説と同様に、ダイジェティックな(diegetic)方法でストーリーを語る*28。ただ、ハイパーテキストでは物語の意味の回復が通常の紙の小説よりも問題となるのでだけある*29

  • VR環境はミメティックな(mimetic)、あるいは演劇的な物語性の実例である*30。演劇や映画でストーリーが、俳優によって演じられるように、VR環境ではストーリーはユーザーと仮想世界とのインタラクションから生じる(脚本の存在により生じないこともある)。

  • 演劇や映画の物語性との大きな違いは、俳優と観客(=受益者)の機能が融合している点にある。プロットの上演に参加するのも、仮想世界で起きる出来事からストーリーを読み取るのも、同じ人物である。

  • ハイパーテキストVR環境は、プラトンが定義した伝統的な文学様式である、ダイジェスティック/ミメティックな物語性を、それぞれ実装しているが、コンピューターゲームの場合は問題がより大きい。

  • 第一に、コンピューターゲームは常に物語の主題を用いるわけではない。『テトリス』のようなゲームは物語性の度合いが最も低い。というのも『テトリス』でのプレイヤーの行動を、具体的な状況で人間の利益の追求として解釈することが困難であるからだ*31

  • 第二に、コンピューターゲームに個性的な登場人物、具体的な設定、導入可能な目標と行動といった、物語の要素を用いることは、それ自体が目的ではなく、プレイヤーをゲームの世界に引き込むための手段である。

  • また、ゲームセッションが物語られる(recount)ことがあるとすれば、それはプレイヤーの予見的態度とは対照的な、解雇的な視点から行われることになる*32
  • では、コンピューターゲームは物語である、あるいは物語になり得る、と言う資格はあるのだろうか。クリントン大統領の言葉を借りるなら、「is」の意味によって全てが決まる。

  • ゲームにとって肝心なのはプレイであり、物語として読める痕跡を残すことではない、という理由でゲームの物語性を否定する人は、「is」の意味を狭くとることに固執している。これは物語表象の様式を従来の文学的物語性の様式に縮小させる解釈である。
  • 文学的物語論がゲームの経験を説明できないからといって、ルドロジーにおいて物語の概念を破棄するべきだということにはならない。これはむしろ、ゲームのために現象学的なカテゴリーを追加して、物語の様式を拡張する必要があるということである*33

  • このカテゴリーを推敲するにあたって、ダイエジェティック様式ミメティック様式の関係から手がかりを得ることができる。映画や演劇を物語と呼ぶのを正当化するのは、観客の心の中に形成される心的表象の形である。

  • この観客が心的イメージを言語に翻訳すると仮定すると、観客は語りの行為、つまりダイエジェティックに提示された物語を生み出すことになるだろう。演劇の物語はこのように仮想的なもの、あるいは潜在的にダイエジェティックなものである。

  • ゲームでは仮想性をさらにもう一歩拡張させることができる。プレイヤーが行う行動は、プレイヤーがその行動を振り返った場合、演劇的なプロットを形成するが、このプロットは通常プレイの最中にはプレイヤーの注目の的にはならない 。

  • このようにゲームは、仮想化された、あるいは潜在的な演劇的物語性を体現しているが、この物語性それ自体は、決して行われないかもしれない「あと語り」という仮想的でダイエジェティックな物語性次第である*34

 

 

 

 

 

 


論文情報

Ryan, M.-L. 2001. “Beyond Myth and Metaphor -The Case of Narrative in Digital Media”  Game Studies, 1(1). available at 

http://www.gamestudies.org/0101/ryan/

 

*1:今僕が読んでいる『可能世界・人工知能・物語理論』の作者。

*2:自分のブログでまとめているので、詳細はこちらを見てほしい。

*3:どちらの論者も「ゲームが物語かは定義次第」であることは一致しているが、ユールはゲーム特有の性質に興味があるし、ライアンはゲームの物語の側面に興味がある。そのため、ユールは「ゲームのこと「物語」て言うの、もうちょっと慎重になろうよ」という感じだが、ライアンはむしろ物語の概念をゲームに適用できるように拡張させようとしている。僕個人の関心はライアンに近いが、立場はユール寄りである。理由はユールが論じているように、物語概念を不用意に拡張させると、その枠組みを適用する意味が薄れていくから。

*4:Officeアシスタントの失敗はインターフェースのデザインにキャラクターを用いたことではなく、単にヘルプがうまく機能しなかったり、邪魔だったからでは?

*5:storyもnarrativeも同じ「物語」という言葉で訳されることが多いが、narrativeと区別するために、ここではstoryを「ストーリー」または「物語内容」と訳す。

*6: 「物語」というと現実とは異なる架空のストーリーを想定しがちだが、少なくとも物語論ではそのようには考えられていない。物語論では物語は「出来事の表象」であると考えられており、物語が提示する出来事は現実の出来事でも架空の出来事でも構わない。

*7:バローニ(2014)によると、「物語価値性(tellability)は、〔……〕ストーリーを語る価値のあるものにする特徴、「注目に値する価値」を指すようになった」。また、物語価値性は報告価値性(reportability)とほぼ同じ意味で用いられている。プリンス(2001)によると、報告価値性とは「状況・事象を報告可能なものに、あるいは、物語られるだけの価値のあるものにする性質」である(p.163)。参考1:Baroni, Raphaël. 2014. “Tellability.” the living handbook of narratology, August 4, 2011. Accessed November 27, 2022. available at https://www-archiv.fdm.uni-hamburg.de/lhn/node/30.html. 参考2:プリンス、ジェラルド(2001)『物語論辞典』遠藤健一訳、増補版、松柏社

*8:物語行為(narration)は物語を語る行為を指している。

*9:prominentをどう訳せばいいのかはよくわからなかった。問題解決が物語のパターンとして実際にメジャーなのはそうだし、その構造がビデオゲームの至る所に見られるのもそうだと思うが、それが本当に人生経験から導かれているのかはよくわからない。物語に見られる王道パターンが我々の人生においてどういう意味を持つのかは、それ自体明らかにすべき課題であるように感じる。

*10:物語は単なる出来事の表象ではない。物語が提示する出来事には何らかの特徴があるはずである。その特徴としてよく挙げられているのが、①出来事が時間順に並ぶ、②統一的な主題をもつ、③出来事間に因果関係がある(キャロル 2001)。ただ、こうした特徴だけでは物語の出来事を説明できないという議論もある。これについてはまた別の機会にまとめようと思う。参考:Carroll, Noël. 2001. “On The Narrative Connection.” In Beyond aesthetics: Philosophical essays, 118-133. Cambridge: Cambridge University Press.

*11:contemplateには「熟考する」という意味もあるが、英語のwikipediaを見る限り、アレフはどうやら覗くものらしいので、「見る」方の意味を優先した。

*12:前者がシニフィアン、後者がシニフィエの話だと思われる。

*13:interaction系の単語はそのままカタカナで訳する。

*14:「妥協」は訳として微妙だが、それ以外の訳語が思いつかないので妥協する。

*15:フラットなキャラクターとは性格が類型化できるような登場人物で、物語を通して特に成長したりはしない。逆に、複雑な内面をもち、物語を通して成長するような登場人物は、ラウンドなキャラクターと呼ばれる。

*16:おそらく、この解釈でのメディアの性質は何かを伝える媒体としての性質であり、伝える内容そのものが変化することはメディアの性質として考えられていないのだと思う。

*17:顕現とは物語言説の具体的な側面を指している。例えば、小説なら文字、映画なら音や映像が顕現に相当する。逆に、フラッシュバックや省略法などメディアに依存しない抽象的な側面は物語陳述(narrative statement)と呼ばれる。話は変わるが、『ストーリーとディスコース』(2021)では、manifestationは「顕現」ではなく「具現形態」と訳されていた。具現形態の方がわかりやすいけど、どっちがメジャーなんだろ。参考:チャットマン、シーモア(2021)『ストーリーとディスコース』玉井暲訳、水声社

*18:Aarseth, Espen. Cybertext: Perspectives on Ergodic Literature. Baltimore: Johns Hopkins UP, 1997.

*19:Laurel, Brenda. "Art and Activism in VR." Wide Angle 15.4 (1993), 13-21.

*20:具体例に『Myst』が挙げられていることから、推理小説だけを指しているのではなく、主人公(ユーザー)が何らかの謎を解き明かすプロットが該当すると思われる。

*21:おそらく、ここでの登場人物は人ではない。プロットに影響を与えることのできる主体が一つしかないということが言いたいのだと思う。

*22:プレイヤーとプレイヤーキャラクターを同一視するとそのような結論になるのだと思われる。ただ、ゲームとしてプレイしている以上、プレイヤーがプレイヤーキャラクターに完全に同一化することはないと思われる。

*23:ここに関しては「ストーリー」と訳すと違和感があるので、物語とした。

*24:Walton, Kendall. Mimesis as Make-Believe. On the Foundations of the Representational Arts. Cambridge, Mass.: Harvard UP, 1990.

*25:ビデオゲームでやたらウォルトンが擦られているのは、ディスプレイに映し出された事態から虚構世界の出来事を解釈するという、プレイヤーの解釈行為を直感的に説明できるからだと思う。

*26:そもそもカットシーンとゲームプレイを組み合わせて一貫したストーリーを構築することが困難である以上、両者は区別して考えるべきだと思う。つまり、インタラクションによって生じる出来事は物語として理解されると言う点で、物語性があるといえるかもしれないが、それがカットシーンなどで語られるストーリーに属するかどうかは別問題である(大抵は属さないだろう)。両者を区別すれば、カットシーンがインタラクションが物語性を持つことの反証であると考える必要はなくなる。

*27:日本だとあまりしなさそうな議論。

*28:diegesis/mimesisは物語言説の区別、おおよそtelling(語ること)/showing(示すこと)の区別に対応する。文学においては間接話法と直接話法の区別に対応するが、ここでは表現手法の違い(言葉で語るのか、それともパフォーマンスで見せるのか)を区別するために使われている。...ややこしくない?

*29:物語の意味の回復とはテキストから物語内容を再構築する我々の解釈行為を指しているのだと思われる。

*30:ふたつ上の脚注読んで。

*31:ライアンは、「プレイヤーが、自分が奴隷で、サディスティックな主人からどんどん投げつけられるブロックで壁を作り、落ちてくるブロックに埋もれないようにしないと生き残れない」という無理矢理な想像をすれば、『テトリス』の物語性はより高まるだろうと言っている。おそらくライアンが想定している物語性には具体的な状況の有無や人間を主題にしているかが大きく関わっているように思える。

*32:ググったところ、recountはどうやら過去に起きた出来事を起きた順に語る(retell)ことを指しているみたい。あと、retellに関してだが、retellの辞書的な意味は「誰かに何かを再び語る」(Cambridge Dictionary 2022)ことだが、「過去の出来事や経験をretellする」といった明らかに再び語っていない状況でも使われる。この後に出てくるretellの用法もゲームの出来事をretellしているわけだから、用法としてはこっちに近いように思われる。で、訳語をどうしようかという話だが、「あと語り」が一番近いのではないだろうか。実際にゲーム実況では「自分のゲームプレイを後から振り返って語る」という意味で「あと語り」が使われている。参考:Cambridge Dictionary. 2022. “RETELL | English meaning.” Accessed December 2, 2022. https://dictionary.cambridge.org/dictionary/english/retell.

*33:もちろん、すべてゲームの経験が物語の概念によって説明されるべきであるということにはならない。問題はどの程度物語の概念を拡張するのか、拡張することによって何が説明できるのかにある。

*34:理屈としては①プレイヤーが行動する②プレイヤーに心的表象が形成される③心的表象が言語に翻訳される④仮想的なダイエジェティクな物語が生まれる⑤④物語が「あと語り」される。で、②-④はあと語りのために行うプロセスなので、あと語りがされなかったら物語性が成立しなくなるわけだが、この「あと語り」はプレイヤーが実際に他人に自分のプレイについて話すことを指しているのか、それともプレイヤーが頭の中で自身の行動を(振り返り)(言語的な)物語として理解することを指しているのか。前者だったとしたら、「あと語り」しない限り映画や演劇も物語性がないことになってしまう。なので、たぶん後者なのだが、自分はライアンが言うような心的表象の言語化を(映画でもゲームでも)行っている気がしない。言語化は実際に他人に話そうとした時に初めてやっているように思える。