フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

『ストーリーとディスコース』第四章「ディスコース——語りのない物語」序盤(p.177~p.196) メモ

(こっちはガチで自分用のメモとして使用するので、読んでも内容がわからない可能性があります。)

  • (一章の復習)
  • 物語陳述:物語の表現形式のうち、個々の具現形態から独立した抽象的なもの。
  • 陳述は経過陳述(行為に関わる)と状態陳述(存在に関わる)のほかに、語り手の有無による分類がある。
  • ただ、必ずしもはっきりと「いる」「いない」で分類できるとは限らず、そこにはグラデーションがある。
  • 物語の受け手は実際は外部から物語に関わるだけなのに、自分に向けて語りかけてくる(語り手がいる)ように感じたり、あたかも物語の場面を「直接目撃した」ように感じられる*1。これはなぜか。

4.1 現実の作者、内包された作者、語り手、現実の読者、内包された作者、聴き手

  • 内包された作者:読者によって物語から再構築される作者像。実際の作者とは異なる*2
  • 「信頼できない語り手」では、語り手と内包された作者(「作品の規範」)が事実上反目し合っているといえる。
  • 内包された作者が物語の規範を設定する。作者は内包された作者を通してどのような規範も設定することができるし、読者はそれを審美的に受け入れ、現実に持ち込まない*3
  • 内包された作者はつねにひとり。作者が複数いるケースでもあくまでひとり。
  • 内包された読者:物語が前提している読み手。実際の読者とは異なる。読者は内包された読者として、小説の世界に入ってくる。
  • 作者は聴き手となる登場人物を用意することで、読者に内包された読者としてどう振る舞うべきか(どの<世界観>を採るべきか)を示すことができる*4
物語伝達の全容(p.183 をもとに作成)

4.2 視点、および視点と語りの声との関係

  • 語り手と視点は別の概念。
  • 視点の区別
    • 知覚的な視点:人物の目(知覚)をとおして
    • 概念的な視点:人物の世界観(認識、物の考え方、社会通念等)をとおして
    • 関心の視点:人物の利害的立場(人物の関心、利益等)から、人物に関するかぎり
  • 視点と物語の声は別物である。
    • 物語の声=表現
    • 視点=表現の基盤となる観点
  • 視点と物語の声は同一人物の物である必要はなく、さまざまな組み合わせが可能である。
  • 登場人物の知覚を語り手が伝える時、語り手は登場人物の心を(比喩的な意味で)「覗き込み」、語り手自身の視点から内容を伝えていると考えられる。
  • ただ、この視点は語り手の「知覚上の」視点なのだろうか。語り手は物語世界の外部から語っているため、「知覚した」とは言えず、それは概念化された視点というべきである*5
  • 語り手の概念形成は、物語に関しては二次的(異質物語世界的)なものであり、物語内の登場人物による一次的概念形成(等質物語世界的)とは異なる。語り手は登場人物の視点とは異なる(対立する)視点から物語を語ったり、登場人物の視点を語り手の視点から補って語ることができる。
  • 登場人物の意識に接近する(感情移入)するためには、その人物の思考のありようを知るなどして、彼の視点に近づく入口を見つければ良い*6
  • また、関心の視点は「注視されている」登場人物に属する*7。同じ人物に関心の視点を設定し続けることで、その人物に(その人物が好きか否かに関わらず)感情移入させることができる*8
  • 外部の語り手はもっぱら物語を語ることに関心があるため、関心の視点を語り手に応用する意味は薄い(登場人物が語り手の場合は別)。語り手は物語をいかなる理由にも使うことができる。

4.3 映画における視点

  • 映画には視覚と聴覚という二つの情報回路がある。映像と音声は同期させることも同期させないこともできる*9
  • 『殺し屋』のように、「そこで」起こったことをありのままに記録する単純な映画の場合*10、カメラが登場人物の視点と一致する必要はない。私たちが主人公に感じる一体感は、主人公がカメラの前に誰よりも登場するという事実から生じる*11
  • 登場人物の視点を強調したい場合
    • 登場人物と一緒に覗き込んでいるように感じられるように、画面に役者の姿を配置する。
    • <登場人物が何かを見るカット->物体が映るカット>と連続するカット(逆も可)を提示することで登場人物がその物体を見ていることを示す。
  • 私たちは登場人物に対して知覚的な共感を得はするが、具体的にどのような視点でそれを見たのかはっきり認識しているとは限らない。
  • 私たちが登場人物と一緒に物体を見ている時、登場人物は視覚的認識の対象物であり、かつ仲介者となっている。
  • 観客の視点(カメラの視点)と登場人物の視点を同一化させることができる(主観的なカメラ)。
  • カメラは移動させることにより、視点をあざやかに変化させる(切り替える)ことができる。

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*1:これを陳述レベルで言えるのかな。具体的なメディアごとにだいぶ事情が異なる気がするけど。

*2:チャットマンの説明を読むに、内包された作者は語り手のような形で我々に直接(この表現はどうかと思うが)情報を伝達しないが、情報の取捨選択や作品全体の構図の決定など、語り手より上の(メタな)水準で情報の伝達に関わっている。

*3:例えば、それが現実の作者の信念であるとするのはナンセンスである。また、チャットマンは内包された作者に(ちゃんとした)読者が「そそのかされる」ことはあり得ない、と言っているが、たぶん現在はそうでもないように思われる。作品の規範の責任はある程度は作者に着せられるし、現実に対するなんらかの主張であるとして読者が影響を受けることも多いように思われる。現実は非情である

*4:ここでの世界観は(weltanschauung)を訳したもの。「世界あるいはそれに関わる人間に対する観念あるいは哲学」( Dictionary.com, LLC. “worldview.” Accessed November 18, 2022. https://www.merriam-webster.com/dictionary/Weltanschauung)。我々が作品世界設定を示すときに使うあれではない。

*5:チャットマンは、自分の存在しない世界の出来事を「見る」というのはあり得ないと説明している。

*6:この場合の視点は概念的な視点?

*7:ここでの関心の視点は「その人物に関するかぎり」という意味での視点であり、「その人物の利害関係から」の方ではない。たぶん。

*8:ここでの「感情移入する」は原書では「identify with」となっている。identifyにそんな用法があるとは知らなかった。

*9:おそらく音声に関しては複数のチャンネルを同時に流すことが可能で、チャットマンが『田舎司祭の日記』の例で、画面外の語りと画面上の声が同時に流されると言っているのはそういうことだと思われる。逆に映像はどうなんだろ。

*10:『殺し屋』のカメラに関して、チャットマンは「カメラは移動するが、必ずあるひとつの位置から撮影をしなければならない(p.193)」と言っているが、映画をさらっと見るに、カメラの移動とはズームやパンなどを指していて、1カットでカメラの位置が移動することではないみたい。

*11:上の関心の視点の話に近い?