フィクションを哲学する

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「Games Telling stories? -A brief note on games and narratives」メモ

ビデオゲーム研究では有名なユール*1が書いた論文。「ゲームは物語なのか?」「ゲームを物語としてみるべきか?」といった問いに対し、具体的に概念を当てはめたり、他メディアの物語と比較・検討している。とはいえ、ユールがイントロに述べているように、これらの問いの答えは「物語」をどう定義するかによって変わってしまう*2。ユール自身は物語論(具体的にはジュネットとチャットマン)の枠組みを用いているが、類似点よりも相違点が強調されている。要はビデオゲームは少なくとも(物語論の)物語の枠組みでは説明できないということだと思う。

 

以下、詳細


イントロ

  • 「ゲームは物語を語るのか」という問いの答えは、言葉の定義次第である。
  • 本稿では、まずゲームが物語であることを支持する主張について検討し、その後ゲームが物語でないことを支持する主張について検討する。
  • 本稿では物語とそれに関わる概念に関して、古典的な定義を参照する。

検討A -ゲームは物語である言説

あらゆるものは物語である/物語として提示できる論

  • 我々は世界のあらゆるものを物語を通して理解することができる。また、自身の経験を物語として語ることができる。
  • 物語が人間の思考の基礎的な部分であったとしても、全てのものが物語の形式で説明されるべきということにはならない。そして、あるものが物語の形式で提示できるからといって、それが物語であるということにはならない。

ストーリー/バックストーリーの存在

  • ほとんどのゲームには、何らかの形(パッケージ、説明書、ゲームのイントロ)でストーリーが提示されている。このストーリーには、プレイヤーのプレイをより大きなストーリー(バックストーリー)の中に位置付けたり、プレイヤーが実現しなければならない理想的なストーリー*3を生み出す役割がある。
  • 例えば、『スペースインベーダ』(タイトー、1977年)には、エイリアン(悪)を追い払い、正(positive)の状態を回復するという、シンプルな物語構造が提示されている*4
  • しかし、実際のプレイではエイリアンを全て撃退しても、次のウェーブが始まるだけで、元の状態に回復することはない。プレイヤーが目指す理想のストーリーは永遠に実現することはない。
  • 一方で、『Half-Life』(Valve社、1998年)のような、アーケードでない一人用ゲームの多くは、実際にゲームを完了し、理想的なストーリーを実現できる。セーブとリロードを繰り返すので、理想的なストーリーラインを辿るのはゲームプレイのごく一部に過ぎないが、それでも振り返ると一定のストーリーが成り立っていることがわかる。

ゲームと物語の類似性

  • スペースインベーダー』の例からわかるように、ゲームと物語はいくつかの特徴を共有している。
  • ただ、ゲームのセッションは物語と同じようにリニアに体験される(Aarseth 1997 p.2)*5という主張は、プレイヤーが能動的に参加している点を無視している。そして、個々のプレイにおいて実現するゲームセッションは、そのゲームから得られる可能性の一つに過ぎない。

結論

  • 物語はゲームにおいて、プレイヤーに目標を提示したり、クリアの報酬として使われることがある。
  • ゲームは、プレイヤーがゲームセッションで起こったことを伝えるのに使える物語を生み出す可能性がある*6
  • ゲームと物語にはいくつか類似点がある。
  • ゲームと物語は「全く」無関係というわけではない。

検討B -ストーリー翻案の問題

  • 物語には、あるメディアから別のメディアに自身を翻案(translate)できるという性質がある*7
  • 物語(narrative)は物語内容(story、語られている内容)と物語言説(discourse、語る方法)に分けられる*8。さらに、物語内容は存在物(登場人物や背景)と出来事(行動や偶発的事象)に分けられる(Chatman p.19)*9
  • 物語が翻案できるとは、物語内容(存在物+出来事)を他のメディアに移植できるということである。
  • ここではこの物語の翻案できる性質を利用して、コンピューターゲームが物語かどうかをテストする。

例1:映画→ゲーム:『Star Wars』を例に

  • アーケードゲームStar Wars』(Atari 1983)は、ジョージ・ルーカス監督の同名映画(1977年)をベースにしている。
  • ゲームは3つのフェーズに分かれていて、いずれも(恐らく)主人公ルーク・スカイウォーカーとして宇宙船を操作する*10
    • 第1フェーズ:宇宙空間が舞台で、敵対する宇宙船と戦う。
    • 第2フェーズ:デス・スターの表面で、さまざまなオブジェクトと戦う。
    • 第3フェーズ:デス・スター内部のトンネルを通り、排気口を攻撃する。成功すると、デス・スターが爆発する。
  • 各フェーズが映画のどの場面に対応しているかは以下の通り。ゲームが再現しているのはほんの一部に過ぎないことがわかる。
    • 第1フェーズは、反乱軍の艦隊がいないことを除けば、映画のあるシーンに対応している。
    • 第2フェーズは、明確に対応しているシーンがない。
    • 第3フェーズは、映画で対応するシーンがあるが、ここでも反乱軍の艦隊はない。
  • また、プレイヤーがゲームと映画の結びつける最大の要因は、本体や画面に表示される『Star Wars』のタイトルだろう。これがなければ、ゲームの原作が『Star Wars』であることに気がつかないだろう。
  • そして、プレイヤーはゲームをプレイして『Star Wars』のシーンとの類似性に気がつくかもしれないが、ゲームから映画の出来事を再現することはできないだろう。前史も、映画の残りの部分も、人間関係もゲームには欠落している。
  • 最後に、ミッションをクリアしてもしなくても、ゲームのその後の展開は映画のものと異なる点が挙げられる*11
  • 以上から、『Star Wars』のゲームは、映画『Star Wars』だと分かるような物語を含んでいるとは言えない。

例2:ゲーム→物語

  • ゲームから物語への翻案例はほとんど存在しないので、少ししか取り上げない。
  • 『Motal Kombat』(Midway games 1993)という格闘ゲームは、『The Mortal Kombat』(Anderson 1995)というタイトルで映画化されている。
  • ゲーム『Motal Kombat』は、様々な人々と様々な結果を結びつける動的なシステムになっているが、映画『The Mortal Kombat』は特定のキャラクターが特定の結末に至る物語である。
  • また、プレイヤーがチェス、あるいは『Half-Life』や『Starcraft』のプレイ経験について語る時、語りに存在物と出来事は移植されるが、ゲームの持つ動的なシステムを移植されない。我々の語りがゲームになることはなく、実際、『Half-Life』をクリアする過程の広大な冒険の多くは、詳細に語られると退屈になるだろう*12

  • コンピューターゲームは、プログラムにより無数の存在物(対戦相手、敵など)を容易に作り出すことができる。そして、存在物の概念は存在物のどの属性が重要であるかを明示していないが、ゲームのルールは重要な仕様とそうでない仕様の厳密な階層構造を備えている*13

  • また、最近のゲームではカットシーンが用いられている。カットシーンは一般的に導入部やゲームの一部をクリアした場面で登場する。

物語ゲームの翻案表

  • 映画をベースにしたゲームは、いくつかのアクションシーケンスを選択して、それをゲームシーケンスでシミュレートする傾向がある。キャラクターの描写や成長は無視されるか、カットシーンで行われる。
  • ゲームから映画へと移行すると、特定のキャラクターが特定の結果を伴う、特定のゲームセッションとして提示される。また、キャラクターもより成長する傾向にある。『Tonb Raider』のヒロインのララ・クロフトは、『Tonb Raider』の映画の中でより多くの過去と人格を獲得している。

検討C -物語とゲームの時間

  • 古典的な物語論の枠組みでは、物語は二つの異なる種類の時間を持っている。一つは「物語内容時間」で語られた出来事の時間を示し、時系列順になっている。もう一つは「物語言説時間」で出来事を語る時間を示し、語られた順になっている。
  • 言葉による物語の場合、時制により、物語言説時間(narrative time)と物語内容時間(story time)の時間的関係が示されている*14。さらに、第三の時間として、読む時間、見る時間を語ることが可能である(Genette, p.34)*15
  • それに対し、映画や演劇には、時間的関係を示す時制はないが、それでも、語られる出来事は「今」起きているのではない(語られる出来事は語りより前に「先行」している)という感覚がある。
  • 物語内容時間と物語言説時間の間には根本的な隔たりがある。物語は出来事とその出来事の提示の間の隔たり、あるいは非同一性に大きく依存している。

コンピューターゲームの中の時間

  • Doom II』(ID Software 1994)のようなアクションベースのコンピュータゲームをプレイする場合、物語内容時間、物語言説時間、そしてと読書/視聴時間の間に距離を見出すことは難しいだろう。
  • プレイヤーはコンピューターゲームの表彰する出来事に影響を与えることができるため、出来事は「過去」や「以前」に起きているわけではない。
  • ゲームは物語内容時間を、物語言説時間や読書/視聴時間と同期するものとして構築している。つまり、物語内容時間は「今」である。出来事が今まさに起こっていて、次に何が起こるかはまだ決まっていない。
  • 例えば、ユーザーがビデオクリップを見て、時々選択する「インタラクティブ・ストーリー」ゲームでは、各時間はそれぞれ離れているが、ユーザーの行動時、それらは必然的に崩壊する。また、既に起きたことに影響を及ぼすことはできない。つまり、「インタラクティヴィティと語りを同時に実現することはできない」*16
  • また、ゲームにはプレイ時間とは等しくない時間の進みがある。例えば、オンラインマルチプレイヤーゲーム『EverQuest』では72分で一日が終了し、2001年にプレイしたゲームが1941年に起きたと表示されることがある*17
  • しかし、ゲームをプレイするには少なくともゲーム世界の時間とプレイ時間が融合し、プレイヤーが実際に何かを「行う」ことができるような時間が収束する点や期間が必要である。

検討D -プレイヤーとゲーム

  • ここで取り上げたいのは、プレイヤーとゲームはいかにして相互作用するのかという問いである。
  • 映画などの物語は人間(あるいは擬人化された何か)が主役で、視聴者は彼らに認知的に同一化する。この同一化する対象(役者)がいないフィクションは基本的には面白くない*18
  • しかし、ゲームの場合は違う。画面に役者が出てこないコンピューターゲームはよくあるし、人気作も多い。
  • 例えば、『Missile Command』(Atari 1980)は、ミサイルをロケットで破壊することで都市を守るゲームだが、画面上ではプレイヤーのアクターは登場せず、表示されるのは都市とミサイルだけである。ただ、そこから兵士がミサイルを操作しているという「仕事内容」を作り出すことも可能だろう。
  • しかし、『テトリス』(Pazhitnov 1985)ではそのような理解をすることは難しい。『テトリス』には目に見えるアクターはいないし、ブロックを制御する人物を想定するのも難しいように思える。それでも、テトリスはとても人気がある。
  • では、同一化の焦点がないにも関わらず、コンピューターゲームはどうして面白いのか。
  • 物語(小説、映画)にエネルギーを注ぐためには、感情的な動機、つまり同一化する行為項(人物)が必要である。この行為項はおそらくコンピューターゲームでも必要だが、ゲームの場合、行為項はプレイヤー自身である。プレイヤーがゲームにエネルギーを注ぐ動機は、ゲームがプレイヤーのプレイングを評価するからである*19
  • 映画や小説と異なり、ゲームが抽象的な内容でも成立するのは、ゲームがプレイヤーを直接的な方法で巻き込むからである。したがって、ゲームの目標(ゴール)はプレイヤーの状況を模倣したものでなくてはならない。ゴールは考えられる限り望ましいものでなければならない(キャラクターを自殺させるような目標は成り立たない。

検討E -アヴァンギャルドの誤謬

  • これまでの主張に対して、20世紀に登場した実験的な物語を無視しているという問題点が考えられる。実験的な物語作品は物語内容と物語言説の二重性にただ追従するのではなく、読者に働きかせ、過去や以前に起きたという感覚をもたらさない。
  • 例えば、ジャン=リュック・ゴダールの映画『Pierrot le fou』は、時間的な省略や俳優がカメラに向かって挨拶するなどの異化(distanciations)が多く、一貫したストーリーを構築するのが難しい*20
  • また、『Naked Lunch』の制作過程で、ウィリアム・バロウズアレン・ギンズバーグに次のような説明を記している「...通常小説は起きたものである。この小説は起きている最中である。(Burroughs 1993, p.375)*21」。
  • 確かに、物語が解釈に対してオープンであればあるほど、受け手の「今」の取り組み(この場合解釈)が重視されるのかもしれない。
  • 物語とゲームの「今」の違いは、前者が読者の解釈により物語内容が不透明になる状況に関わることである。テキストは「すべて」物語言説であり、その結果時制の緊張は緩んでしまう。ゲームの今は、「物語/ゲームの世界が消失することなく」、物語内容時間はプレイ時間に収斂することを意味する*22
  • ゲームは明確なゴールと、そのゴールへの到達を阻む障害により成立する。物語は基本的に解釈的であり、ゲームは形式的である。あるいは、サイバーテキスト的に言えば、物語内容は解釈に支配されているのに対し、ゲームは構造に支配されている(Eskelinen 2001)。
  • 読者や視聴者は従来の理論が想定していたより能動的であるが、それはゲームとは異なる意味で能動的であるということである。

結論

私は次のように考えている。

  1. プレイヤーはゲームセッションのストーリーを語ることができる。
  2. 多くのコンピューターゲームには物語の要素が含まれており、プレイヤーはカットシーンを見たり、物語のシークエンスを実現するためにプレイすることが多いように思われる。
  3. ゲームと物語は、いくつかの構造的特徴を共有している。

とはいえ、私が主張したいのは次のことである。

  1. ゲームと物語は実際のところ、小説と映画のように互いに翻案されることはない。
  2. インタラクションにおける「今」と、物語における「過去」あるいは「以前」との間には、本質的な矛盾がある。語りとインタラクティヴィティを同時に実現することはできない。
  3. 読者/物語とプレイヤー/ゲームの間の関係は完全に異なる。プレイヤーは、ゲームの外にいる経験の主体であると同時に、ゲームの中で何らかの役割を引き受けるという、曖昧な領域に属する存在なのである。
  • 私はゲームをプレイヤーの経験を複雑な方法で生み出す形式的な構造として考える必要があると主張する。これはインタラクティヴィティの影響を無視することはできないということである。
  • 物語やゲームの世界の非決定的な状態とゲームをプレイする際のプレイヤーの能動的な状態は、我々がゲームをどのように認識するかに非常に大きな関連を持つ。たとえ物語と全く同じ出来事がゲームで起きたとしても、そこで得られる経験は異なるだろう。私たちはゲームを複数のシークエンスを可能にする動的なシステムと考えるからだ。
  • ここ20年間の物語ブームによって、物語の概念は人間社会や記号生成のあらゆる側面を記述する上で、特権的な概念として立ち現れてきた。しかし、概念を拡大することは境界を曖昧にし、概念を混同する危険がある。
  • 他のメディアを出発点にして研究を進めるのはいいが、既存の理論に頼りすぎるとゲームをゲームたらしめているものを忘れてしまう。私たちが研究すべきなのは、ゲーム特有の部分である。

論文情報

Juul, J. 2001. “Games telling stories? -A brief note on games and narratives.”  Game Studies, 1(1). available at 

http://gamestudies.org/0101/juul-gts/

*1:『Half-Real』書いた人といえばわかるかもしれない。

*2:この手の研究に取り組まないとわからないことだけど、一般的に「物語」は実際かなり雑に使われている。「物語」とか「ストーリー」とかいう言葉が出てきたら身構えるくらいの気持ちでいた方がいい。

*3:「ピーチを助ける」などのゲームの目標となる出来事のこと。

*4:ここで言っているのは、最初の状態が覆され、負の状態になり、その後元の正の状態に回復するという、よくある物語構造の話。

*5:Aarseth, Espen J.: Cybertext: Perspectives on Ergodic Literature. Baltimore & London: Johns Hopkins University Press, 1997.
—"Aporia and Epiphany in Doom and The Speaking Clock: The temporality of Ergodic Art" In: Marie-Laure Ryan (ed.): Cyberspace Textuality: Computer Technology and Literary Theory. Bloomington: Indiana Press, 1999.

*6:これはゲームで起きた出来事を他人に物語として伝えることができる(出来事を物語化できる)ということなのだろうか。それとも、文字通りプレイヤーがゲームで起きた出来事を何らかの形(物語とは限らない)で)伝えるのに、ゲームで用意されている物語(バックストーリー等)を使用することがあるということなのだろうか。

*7:この「翻案」は「移す」(transfer、transport)とも言い換えられている。translateの訳は「翻訳」でもいいとは思うが、言語の翻訳と混同しそうなので別の言葉を当てた。

*8:日本語訳だと物語内容は専門用語になっているが、英語の場合はstoryなので、文脈を踏まえてどちらの意味で使用されているのか判断する必要がある。

*9:Chatman, Seymour: Story and Discourse: Narrative Structure in Fiction and Film. Ithaca: Cornell University Press, 1978. なお、日本語訳もあるので英語が苦手な方はこちらを参照(シーモア・チャットマン著(2021年)『ストーリーとディスコース』玉井暲訳、水声社

*10:「恐らく」というのはゲームが操縦者視点になっていて、ゲーム画面だけではだれが操作しているのかわからないためと思われる。

*11:クリアした場合でも、別のデス・スターが出現する(たぶんゲームがループしている)らしい。

*12:プレイしている時は楽しいかもしれないが、それをそっくりそのまま物語として提示するとたぶんつまんない。同じ出来事の表象だとしても、ゲームと物語が生み出す快楽のレベルは違うのだと言いたいのだと思う。

*13:フィクションの上では同じ存在物でも、ゲームにとって有意味なものかそうでないかに差があるということだと思われる。例えば、キャラクターの服装が完全に装飾目的で、ゲームに全く関係がないケースが考えられる。

*14:括弧でわかると思うが、物語言説時間、物語内容時間は意訳。

*15:Genette, Gerard: Narrative Discourse. Ithaca: Cornell University Press, 1980.

*16:ユールはこの後フラッシュバックやフラッシュフォワードビデオゲームに見られないことを指摘している。ただ、これはビデオゲームの物語(内容)が線形的でゲームプレイにあまり左右されない場合はこの限りでないように思われる(『ペルソナ5』は逮捕され尋問を受けている主人公の回想という形で、ゲームが進行する。これはフラッシュフォワードの手法をとっていると言える。)。

*17:これに関しては別にゲーム特有というわけではないように思える。

*18:ここの「役者(actor)」は登場人物といったほうがいいかもしれない。

*19:感情的な動機は、要はいかにして受け手がそのコンテンツに乗せられるかという話だが、物語の場合は「受け手が登場人物に感情移入する->登場人物につられる形で物語にのめり込む」というプロセスが必要になるが、ゲーム場合はプレイヤーを直接ゲームにのめり込ませているということなのだろうか。

*20:「異化(distanciations)」について、演劇でそういう手法があるらしいが、詳細はわからない。

*21:Burroughs, William S.: The letters of William Burroughs 1945-1959. Ed. by Oliver Harris. London: Penguin Books, 1993.

*22:ここら辺は正直何言っているのかわからなかった。