フィクションを哲学する

くだらなくてもいいじゃない。

『デジタルゲーム研究』序章_コメント

1. はじめに

  先日の〈ゲームの哲学〉研究会*1で『デジタルゲーム研究』の序章を扱ったが、そこで僕がしたコメントを紹介する。理由としては参加者の人に「コメントを公開した方が(議論が深まるという点で)喜ばれるのでは」と言われたから。うーんそうなのかなぁ...。でも、吉田先生は批判ウェルカムみたいだし...*2。まぁ、こんな感じです。
 主なコメントは(一応)専門の物語やフィクション関連に集中しています*3

 

2. 研究会でしたコメント*4

ルドロジーとナラトロジーの調停(吉田 2023, 11–13)について

  • 筆者のルドロジー対ナラトロジー論争(以下「ルドナラ論争」)まとめ方(5節)だと、①ルドロジストの主張、②ルドロジスとナラトロジスによる論争がある(あった)という誤解、③当事者による誤解の訂正、④ルドロジーとナラトロジーの調停へという流れになっている。
  • ここで気になったのが④についてで、ここで作者が「調停」で言わんとしていることがよく理解できなかった。本書において「調停」は単に両者の中間の立場を主張する以上の意味が含まれているように思われる*5。というのも、ルドロジーとナラトロジーの「調停」がゲーム研究における課題や目標であるかのように語られているからだ。
  • 僕は単に両者の妥協点や中間を取るだけではその理論の妥当性を示すことはできないと考えているので、調停することそれ自体が理論的課題に据えられているのは違和感がある。両者の中間の立場が正しいという共通の見解が先にあり、それに向けた理論の構築が今後の課題になっているということであれば、理解できる。

イェスパー・ユールが「ルドロジストとしての立場を自覚的に放棄した」(吉田 2023, 14)について

  • 僕が『ハーフリアル』を読む限りでは、彼はルドロジストとしての立場を放棄したとはいえないと思う。確かにユールはかつての論文(Juul 1998)を一部撤回している(ユール 2016, 23–26)が、一連の固定的な出来事の提示という意味での物語はゲームと異なるという主張は変わっていない(そしてルドロジストのメインの主張は後者のはず)。
    • ユールがここで行ったことをまとめると、かつての論文でゲームと物語の関係として論じた主張を①ゲームとフィクションの関係についての主張(ルールとフィクションの関係は恣意的だ)と②ゲームと物語の関係についての主張(先ほど説明した通り)に整理し、前者を撤回し後者を維持したことだといえる。

「長い歴史をもつ議論」(吉田 2023, 15)について

  • 『ハールリアル』の「ルールかフィクションか」(ユール2016, 23–26)で問題になっている「長い歴史をもつ議論」について、筆者はこの議論を「一九九八年以来のルドロジストとナラトロジストとの論争」(吉田 2023, 15)であると解釈しているが、おそらくここで問題となっているのはルドナラ論争ではなく、もっと古くから続く一連の議論のことだと思う(その一部にルドナラ論争が含まれているかもしれないが)。
  • というのも、ユールが「ルールかフィクションか」で念頭に置いているのはカイヨワやゴフマンの議論であり、本文の議論もゲームと物語の関係とは焦点が異なるように思われるからだ。
    • ここで焦点が当たっているのは、ルールとフィクション(あるいは表象的な要素)の関係である。ユールは自身がかつての論文をはじめとした、両者の関係についてのありがちな主張(ルールとフィクションの関係は恣意的でゲームのフィクションは重要ではない)を取り上げ、棄却している(ユール 2016, 23–26)。
  • また、ユール自身はビデオゲーム研究の歴史を「短い」と述べている(ユール 2016, 21)。ルドナラ論争がビデオゲーム研究の設立前後の出来事である以上、「長い歴史をもつ議論」がルドナラ論争を指していると考えるのは不自然だと思う。

参考文献

 

*1:〈ゲームの哲学〉研究会に興味のある方はTwitter(現:X)のアカウントに連絡してみると反応があると思います。https://x.com/GamesPhilosophy

*2:参考:https://x.com/H_YOSHIDA_1973/status/1714533213287387449

*3:あとコメントを既に『デジタルゲーム研究』を読んでいること前提で書くので、読んでないと何言っているのかわからないと思います。

*4:コメントは研究会でしたものを修正している。

*5:あと、この文脈において具体的に何と何を調停しようとしているのかの理解も少し曖昧になっている。そもそもルドナラ論争において両者の立場は誇張されて理解されている。なので、ルドナラ論争において両者がどのような立場であると語られていたのかと、当の論者が実際にどのような立場であったかは分けて考える必要がある。