はじめに
『The Aesthetics of Videogames』に収録されている論文の一つ。ここでの「物語(narrative)」は小説や映画などの一連の出来事を表象するモノや行為を指している。全体的な議論の流れとしては、Gautの議論を参考にプレイヤーが語り手である主張を最大限擁護しつつ、それでも意図の観点からプレイヤーは語り手にならないという結論が下される感じ。
僕が要約を書くと長くなりがちだが、この論文については特に長くなってしまった。なので、今回は要約をさらに短くした要約と論文全体に対するコメントを載せ、長い方の要約と細かいコメントは後日別の記事で書くことにする*1。
要約(の要約)
イントロダクション
ビデオゲームの多くはフィクションであり、フィクションであるビデオゲームの多くはインタラクティブな物語である。そのようなビデオゲームでは、プレイヤー*2はゲームプレイを通じてその物語(story)*3の一部を決定することができる。これは一見するとプレイヤーはそのゲームの物語の語り手(narrator)(あるいは共同の語り手(co-narrator))であるように見える。
筆者はこの見解に反し、プレイヤーはそのゲームプレイで生み出された物語の語り手(あるいは共同の語り手)ではないという主張を擁護している*4。
1. 概念的な下準備
筆者はここで主に事例、インタラクティブ性、物語性といった概念の関係について整理している。
- ビデオゲームは存在論的に複数であり、1つのビデオゲームに対して複数の異なる事例(instance)が存在する。
- ビデオゲームはインタラクティブであり、鑑賞者が部分的にその作品の事例と特性を決定されていることが許可されている(authorized)。
- インタラクティブな作品だからといって、インタラクティブな物語になるとは限らない。ある作品がインラクティブな物語になるためには、ユーザーがその作品の事例における〈物語〉の特性を決定するようにしなければならない。
2. インタラクティブな物語の可能性に対するいくつかの議論
筆者はBerys Gautの議論を援用しつつ、ビデオゲームと物語の関係について(否定的な)主張を検討している。
Gautが挙げている主張は以下の5つ。
- 〈分岐〉説(bifurcation argument)*5:
ビデオゲームには(i)非インタラクティブで物語の「カットシーン」と、(ii)インタラクティブで非物語のゲームプレイの2種類のシークエンスがあり、そこにはインタラクティブな物語はない。 - 〈エラー〉説(error argument):
出来事それ自体と出来事の表象は異なる。ビデオゲームにおいてプレイヤーキャラクターは出来事を起こしているが、その出来事(についての物語)を語っているわけではない。 - 〈シミュレーション〉説(simulation argument)
- 〈時間的距離〉説(temporal distance argument):
物語を語るためには、語られる出来事は語る行為より前に起きていなければならない。ビデオゲームはこの条件を満たしていない。 - (Gautは〈語り手不在〉説(no-narrator argument)も挙げているが、あまりにも酷いのでここでは検討しない*6。)
筆者はこのうち4つの主張を①分岐説、②エラー説とシミュレーション説のバージョン1、③シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説の3つに分類し、それぞれを検討している。
- ①分岐説については、a. カットシーンが物語であることと、b. カットシーンとゲームプレイが明確に異なることから、c. インタラクティブなゲームプレイが物語でないことは導けないと指摘して、棄却している。
- ②エラー説とシミュレーション説のバージョン1について、ゲームプレイの物語を語るのがプレイヤーキャラクターである必要はなく、プレイヤーがその物語を語っているのだというGautの指摘を持ち出して、棄却している。プレイヤーは映画制作者のように映像や音声を(部分的に)制作することにより、そのゲームプレイの物語に貢献できるため、プレイヤーは語り手になるだろうと、Gautは主張している。シミュレーション説についても、Gautはシミュレーションのモデルは表象の一種であるため、この主張も失敗していると指摘している。
- ③シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説について、これらはそれぞれ認識的な条件(語り手は物語の出来事を知っていないといけない)と時間的な条件(語られる出来事は語りの行為に先行していないといけない)を前提としている。筆者は自分の身の回りで起きた出来事をそれが起きたと同時に語る語り手を想定し、実際に物語を語るのに必要な条件は認識的なものであると指摘している。
筆者はさらにこの自伝的な語り手の例を用いて、認識的な条件をクリアする戦略を2つ提案している。 筆者はさらにこの自伝的な語り手の例を用いて、認識的な条件をクリアする戦略を2つ提案している。- 戦略1:出来事が起きる〈前に〉その出来事を語る
語り手は少なくとも自分が何をしようとしているのかを知っているので、自分がこれから行う行動を語ることができる。 - 戦略2:出来事を言葉ではなく実演することで語る
語り手は自身の行動や周囲の出来事をそれを実際に行うことで語ることができる。この時、あらゆる語り手の行動と周囲の出来事が物語の一部になると語り手は定めている(そう意図している)ため、認識的な条件はクリアされている。
- 戦略1:出来事が起きる〈前に〉その出来事を語る
3. 語りの必要条件
Gautはある人物が語り手になるためには、その人物は〈物語の情報を伝達することを意図〉(intend to transmit story information)しなければならないと主張している。筆者はこの条件を「①伝達」「②物語の情報」「③意図」の3つに分解し、プレイヤーがそれぞれの条件を満たしているか検討している。
- ①プレイヤーはゲームプレイで何らかの情報の〈伝達〉しているのかについて、筆者は伝達の概念の中心にあるのは何かをある場所から別の場所へ移動させることだと分析し、ビデオゲームの場合、伝達は(あるとしたら)自分から自分へ向かっていると指摘している。そして、このような伝達のあり方は不可能ではないにしろ標準的ではないと指摘している。
- ②プレイヤーが伝達しているのは〈物語の情報〉なのかについて、筆者は「ある表象された出来事が物語(story)になるためには、それらの出来事が繋がったものとして表象されなければならない」というGautの分析を取り上げ、プレイヤーはゲームプレイを通じて出来事をそのように表象しているのかを考察している。
筆者はプレイヤーが物語の出来事の一部しか決定していないという事実を踏まえつつも、プレイヤーが自伝的語り手の戦略2のような包括的な意図を持っている可能性を指摘している。つまり、プレイヤーが自分が決定する出来事を他の出来事と因果的に繋がったものとして表象する意図を持っているのであれば、この条件は満たされていると言える。 - ③プレイヤーには物語を語る〈意図〉はあるのかについて、筆者はフィクションとストーリーテリングの関係を整理しつつ、プレイヤーが物語の一部を決定していたとしても、そこからプレイヤーは物語の情報を伝達する意図を持っていることは導けないことを指摘している。そして、一般的にプレイヤーが物語の情報を伝達する意図を持ってないことを、様々な例えを持ち出しながら直感に訴える形で説明している。
筆者はこの後ビデオゲームの物語における語り手は誰かという問いに移る。筆者の答えはゲームの設計者が唯一の語り手であるというものだ。ただ、これはビデオゲームで起きる出来事にはゲーム設計者が決定していないもの、あるいは知らないものが含まれているため、直感的でないように思える。筆者は次の2つの議論を持ち出すことによって自身の説を補強しようとしている。
- 一つは、自伝的語り手の戦略2のような包括的な意図をゲームの設計者も持っているというものだ。この場合、知らない情報の伝達についても設計者は意図して伝達していることになる。
- 二つは、インタラクティブな物語の受容経験について直感に訴えるものである。筆者は『A Choose Your Own Adventure』を引き合いに出し、この本での経験は作者によって予め定められた可能な物語を〈発見する〉経験であり、出来事を決定することにより物語を〈語る〉経験ではないという。
- 筆者はこれに加えてGrant TavinorやBerys Gautも暗に語り手に関する筆者の見解に同意していると解釈できると主張している。
最後に、筆者はマルチプレイヤーゲームのケースについて簡単に考察している。
- マルチプレイヤーゲームの場合、各プレイヤーがそれぞれ別の物語に貢献しているのでなく、単一の物語に貢献している。
- そして、マルチプレイヤーゲームにおいてもやはりプレイヤーはストーリーテリングの意図を持ってはいないだろう。
4. 結論
筆者はここでインタラクティブな物語の受容者がその作品の事例における共同の語り手になり得ないとは主張していないことを強調している。筆者がこの論文を通して主張したのは、(もしそれがあったとして)受容者が共同の語り手になるような状況が一般的なプレイヤーのそれと著しく異なっていることである。インタラクティブな物語のビデオゲームにおいて、プレイヤーはゲームとのインタラクションを通じて物語を共同で生み出してはいるものの、それによってプレイヤーがその物語の語り手になるわけではない。
思ったこと*7
ここでは僕が論文を読んで思ったことについて掘り下げてみる。最初は4つぐらいあったけど、だらだら書き直しているうちに結局2つになってしまった...*8。
包括的な意図戦略は本当に有効なのか*9
「シミュレーション説のバージョン2と時間的距離説」を擁護する戦略として提案された包括的な意図戦略だが、この種の意図は筆者のこの後の議論にも登場する。ここで筆者が提唱としている「包括的な意図」はまとめるとおおよそ次のようなものになるだろう。
- 包括的な意図:語り手が語る*10あらゆる出来事(語り手自身が認識していないものも含む)について、これらの出来事が①語り手の語る物語の一部、あるいは*11②他の出来事と繋がったものとして解釈される*12意図。
ただ、僕はこの包括的な意図を採用することで、ある出来事の表象が物語になるというのは少し怪しいと思っている。筆者が想定するケースの一つ*13に、語り手が認識していない*14出来事に関して包括的な意図を適応するものがあり、この時筆者は①の意味で包括的な意図を持ち出している。確かに筆者が言うように、①のような意図は成立するかもしれないが、そのようにして作られたものが物語であるとは限らないと思う。ここで僕が言いたいのは、これらのケースは出来事間の繋がりに関する物語の条件を満たせるのかということだ。筆者はこの種の条件についてGautの議論を参考に次のように述べている。
すなわち、表象された出来事が物語とみなされるためには、出来事は単に表象されるだけでなく、表象されかつ繋がっているだけでもなく、繋がったもの〈として(as)〉表象されなければならない。(Kania 2018, 136))
僕も筆者のこの見解には同意するが、筆者がここで擁護しようとしている語りはこの条件を満たしているとは言えないと思う。もちろん、ここでの包括的な意図に②も含まれている可能性は十分ある。ただ、それでも厳しいと思う。
そう考える理由はいくつかあるが*15、そのうちの一つは、おそらく出来事が繋がっているか(あるいは、どのように繋がっているか)は単純に意図のみで決定するわけではないからだ。物語における出来事間の繋がりが因果関係(あるいはより弱い因果的な関係)として説明されることが多い(Carroll 2001など*16)ように、繋がりはある程度表象された出来事それ自体に依存するように思われる。そのため、物語を語る際に「出来事を繋がったものとして表象する」ためには、普通「どの出来事を表象するのか」までデザインする必要があると思う。ただ、この表象する出来事のデザインに関しては、語り手が出来事を認識していない場合にそれを行うのはほぼ不可能だと思う。
もちろん、こうした語りが実際に物語に含まれるかどうかの大部分は程度問題になると思う。Gregory Currieが論じるように、ある出来事の表象が物語であるかは物語性(narrativity)の度合いの問題であるだろう(Currie 2010, chap. 2)し*17、筆者が適用しようとしている例はどれも(意図せずとも)最低限の因果関係は有しているように思われる。なので、最終的にはどこまでを物語に含めるべきかという議論になるかもしれない。
最後に一つだけ。包括的な意図という概念自体はすごくいいと思う。包括的な意図はプレイヤーが起こす出来事が物語の一部になる(そのような解釈が一定の正当性を持つ)ことの説明になるかもしれない。ただ、ビデオゲームで包括的な意図がどこまで適用されるかは慎重に検討しなければいけないし*18、包括的な意図自体ももっと詳細に詰める必要があるだろう。
プレイヤーが語り手になる可能性・研究対象の選定について
筆者はプレイヤーに物語(story)を語る意図はないことから、プレイヤーは語り手ではないと結論づけているが、逆にいうとプレイヤーに物語を語る意図がある場合はプレイヤーが語り手となる可能性があるということになる。
僕はゲームのルール次第ではそういうゲームを作ることは可能であると思う。というか、ボードゲームなどの中にはそういうゲームはすでにある(ビデオゲームであるかどうかはわからないけど)。僕の記憶が正しければ、例えば『ワンス・アポン・ア・タイム』はそれに該当すると思う*19。このゲームは手持ちのカードを場に出しながら、そのカードの内容を元にストーリーを作成し、最終的に手持ちのカードを出し切ったら(最後は結末カードを出す必要がある)勝利となる。この時プレイヤーは自分がその場で作ったストーリーを他の対戦相手に語る必要があるが、このプレイヤーは物語を語る意図を持っていると言えると思う*20。
こう考えると*21、筆者が研究対象の選定について、最もプレイヤーが語り手でありそうな作品(『ゼルダの伝説』『Grand Theft Auto』『Call of Duty』など)を対象に論証し、他の作品に対しても帰納法的に適用可能であるとした(Kania 2018, 129)のはうかつであったように思う。実際に語り手であるかどうかは検討しないことにはわからない以上、語り手でありそうな作品に対して適用できたとしても他の作品に適用できるとは限らないからだ。現にボードゲームではプレイヤーが語り手となるゲームがある以上、少なくともビデオゲームでもやろうと思えばそのような作品を作ることはできると思う。
筆者は研究対象をプレイヤーが語り手でありそうな(あるいはそのように捉えられることが多い)特定の作品群・ジャンルに絞った方が良かったように思う。
参考文献
- Barwell, Ismay. 2009. “Understanding Narratives and Narrative Understanding.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 67 (1): 49–59. https://doi.org/10.1111/j.1540-6245.2008.01334.x.
- Carroll, Noël. 2001. Beyond Aesthetics: Philosophical Essays. Cambridge, England: Cambridge University Press.
- Currie, Gregory. 2006. “Narrative Representation of Causes.” Journal of Aesthetics and Art Criticism 64 (3): 309–16. https://doi.org/10.1111/j.1540-594x.2006.00208.x.
- Currie, Gregory. 2010. Narratives and Narrators: A Philosophy of Stories. London, England: Oxford University Press.
- Kania, Andrew. 2018. “Why Gamers Are Not Narrators.” In The Aesthetics of Videogames, 128–45. New York : Routledge.
- Velleman, J. David. 2003. “Narrative Explanation.” The Philosophical Review 112 (1): 1–25. https://doi.org/10.1215/00318108-112-1-1.
*1:特に具体例についてはごっそり削っている。
*2:筆者は本文で「プレイヤー(player)」ではなく「ゲーマー(gamer)」という語を使っているが、プレイヤーの方が一般的なのでここではプレイヤーに置き換える。
*3:この記事では“story”と“narrative”の訳語として同じ「物語」という語を使用する。筆者はこれらの用語を物語論的な用法で用いているように見えるが、訳し分けるほどではないため。とはいえ、“story”は普通narrativeによって語られる内容を指すので、本来なら「物語内容」や「ストーリー」などの語を用いて訳しわけた方がいいだろう(今ちょっと後悔している)。
*4:物語論では「語り手(narrator)」は筆者と区別される虚構の人物とされているが、この論文における「語り手」は虚構の語り手と実際の語り手の両方を指している。この論文で問題となっているのは実際の語り手の方である。
*5:ここでの“~ argument”は「〜説」と訳す。
*6:筆者本人が注15でこのようにコメントしている(Kania 2018, 143)。
*7:上の要約では具体例や議論の詳細をかなり端折っているので、要約を読んだだけでは意味がわからないコメントがいくつかあると思う。
*8:こう言うの時間かけるのよくないと思う一方で、碌でもない議論を弾けてよかったと言う気持ちもある...。
*9:正直これについては自分自身かなり微妙な議論をしていると思う。
*10:当然だがここでの語りには言語的な表象以外のものも含まれる。
*11:筆者が「包括的な意図」を持ち出すとき、①②の二つの意味のいずれかで用いられていると思われる。筆者自身が両者の関係についてどのように考えているのかはわからないので、「あるいは」とした。
*12:筆者自身はこの意図を「その作品の一部になる意図」や「〇〇として表象される意図」と説明しているが、いずれにしろ解釈の正当性に関わる問題なので解釈についての意図として問題ないと思う。
*13:2章③の戦略2と3章の設計者のみが語り手であるという説を擁護する部分のこと。2章の戦略2では、これから自身の行う行動とそこで生じる出来事により語り手が今経験している出来事を語るという語り手が想定され、3章では、設計者(そのゲームの物語の語り手)がプレイヤーの起こす(設計者の予測していない)出来事も物語の一部になるように意図していると論じられている。
*14:とはいえ、これが認識(語り手が自身の語る出来事を知っているのか)の問題なのかは微妙かもしれない。どちらかというと語る内容が何もデザインされていないことの方が問題かもしれない(例えば、新聞記者ゲームみたいに、ランダムに選ばれた言葉の組み合わせが読み上げえられて「私が今伝えたいのはこれです」と言われても納得する人はあまりいないだろう(話者が「これ」を伝えようとしてそれを行なっているとは思えない))。
*15:他の理由としては、物語を意図に基づくコミュニケーションの一種として考えた場合、筆者が擁護しようとしているタイプの語りはそのようなコミュニケーションのあり方からかなり逸脱しているように見える点などが挙げられる。これについても書こうと思ったがサールやグライスの理論を触りしか読んでいない程度の理解で論じるのは無理があると思い断念した。とはいえ、ビデオゲームの物語を論じる上で重要な(そして既存の研究であんまり考慮されている感じがしない)点だと思うので、ちゃんと勉強したら別のところで書くかもしれない。
*16:一方で、物語に不可欠なのは因果関係(あるいは因果関係のような繋がり)ではないとする主張もある。自分が知る限りではVelleman(2003)、Currie(2006)、Barwell(2009)がこの種のトピックを扱っているが、その後どうなったかは知らない。
*17:正確にはあるものが物語かを問題にしている時、実際には物語性の度合いを問題にしていることがあるといった感じ(そして今回問題となっているのはまさに度合いのことだろう)。今のとこ2章までは翻訳したので、そこまでのまとめ記事も書くかもしれない。
*18:正直なところ僕は包括的な意図が適用される範囲は限定的だと思う。少なくともバクで生じた出来事は物語に含まれるように意図されていないだろう。そこら辺の話はどこかでやると思う。
*19:参考:https://bodoge.hoobby.net/market/items/43
*20:他にもTRPGのセッションの一部では、プレイヤーは物語を語る行為に近いことを行なっていると言えるかもしれない。
*21:実際には上の内容関係なしに問題だと思うが...。